安心感

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 昼過ぎのことだ。工房の方へ雪乃さんが訪ねて来た。 「後はセキさんに任せて、これで一旦引き揚げますね」 どうやら、宗太と奈津は昼寝に入ったようだ。 「すいません。少しだけ、いいですか?」 弟子らの目をはばかり、事務所の応接スペースに彼女を招き入れる。 「お茶も何も無くすいません。そこまでなかなか手が回らなくて……」 雪乃さんはただ首を横に振って、俺の出方を待っている。 「今朝のご隠居さんの話なんですが……」 ご隠居さんと雪乃さんの会話を聞いてしまったことを切り出した。 「ご隠居さんは近いうちに『ひじり荘』を閉じられる気なんでしょうか?」 雪乃さんは少し考え、首を横に振る。 「ご隠居さんは高齢ですし、そう遠くないうちに娘さんご夫婦に『ひじり荘』を譲渡されるおつもりなんでしょう」 ここからほど近い郊外に、ご隠居さんの血縁者である娘さんが居を構えていることは、俺も知るところだった。 雪乃さん自身も何度か面識があり、その娘さんのご主人が『ひじり荘』の連帯保証人として判を付いているのだと言う。 「お陰様で経営は順調ですから、『ひじり荘』は閉じられることは無いと思いますよ」 おそらくは娘さんたちで切り盛りされるはずだと、彼女は淡々と告げた。 「いつまでもご隠居さんに雇っていただくわけにはいきませんから、私はそれまでに身の振り方を考えなければならないという話だったのでしょう」 それならばと、その話に俺は手を挙げていた。 「ならっ!なら、俺のところに永久就職してください。雪乃さんなら申し分ない」 身を乗り出す俺に、雪乃さんは圧倒されたのか僅かに身を引いて、目を瞬いた。 「え、永久就職って……。わ、私を雇いたいと、そういうことですか?」 「はい、終身雇用です」 居を正して俺も経営者の顔になる。 「業務内容は具体的にどのようなことを?」 近頃、家具を中心に受注が伸びていることや、それに伴い弟子の数が増えたこと、事務手続きが滞りがちであることを上げ連ねた。 「それは……今すぐにでも裏方に手が必要な様子ですね」 俺は激しく同意に頷いた。 「発注から納品までの事務を中心とした受付業務全般を担ってもらいたいんです。給与に至っては今の給金に見合った額を頑張らせていただきます」 雪乃さんは調理の仕事だけでなく、施設管理及び収支決済業務もこなしていたくらいだから、安心して任せられると太鼓判を押す。 「……ご隠居さんに、(いとま)を申し出ても、きっと直ぐという訳にはいかないでしょう。おそらく、早くても年度内は(ひま)をいただけないかと思います」 「待ちますっ!」 つい声を上げてしまい、雪乃さんはまた、少しばかり身を引いた。 落ち着け、焦るな。 怯えさせては元も子もない。 俺は冷静になれと、一度大きく息を吐いた。 「雪乃さん……」 「はい」 雪乃さんは衿を正して、膝にある手を固く握り込んだ。 「お受けしていただければ、雪乃さん限定の福利厚生があります。住み込み、賄い付きです」  先程から、一体どんな口説き文句だと自分でも呆れてくるが仕方がない。 どうやったら彼女の心を陥落させることが出来るのか、俺には分からなかった。 色よい言葉など、きっと彼女の心には響かない。 彼女は俺の手を拒み、あっさりと身を引いてしまうだろう。 後腐れなく、誰も知らないところに移り住み、これまで彼女がしてきたように独り生きる術を磨いて生きていく。そんな気がしてならなかった。 彼女を手元に置いておくには、情けない話だが雇用契約しか思い浮かばなかったのだ。 葵は雇用契約など無くとも彼女に寄り添える者であろうとした。 けれど、俺は逆だ。 雇用契約を結ぶことで雪乃さんから得難い信頼を得ようとしている。 彼女にとっては、それが一番安心できる形だというならそれを与えるしかない。 「一生涯あなたが安心して働けるように、俺は出来る限りを尽くします。代わりにあなたには俺を支えてもらいたい。俺と一緒に歩む道を選んでください」 俺の言葉を彼女がどう捉えるか、それは彼女次第だ。 俺は届けとばかりに願っていた。
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