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 この男と私が出会ったその日、大口の取引先が視察にやってくるらしいと、工場は沸いていた。  うちの所長が何度も頭を下げながら、この男に工場を案内していた。 「へぇ、君みたいな若い娘も働いているんだね」 そんな言葉と共に、男は作業する私の傍らに立ったのだ。 「君、幾つなの?女の子には結構きつい仕事じゃない?」 思えば最初から、なんとなくいやな予感はあったのだ。 「彼女は去年入ったばかりの新入りで、十七です。先の戦争で身寄りのない娘なんですが、機転が利いてよく働いてくれています」 所長が誉めそやすも、私はジロジロと見つめてくるこの男に警戒を走らせていた。 『身寄りのない娘』と聞いた途端に、彼の目に何らかの意図が走ったように思えたのだ。 「名前は?」 「彼女の名は――」 男は横柄に片手を挙げて、所長の口を遮った。 「君に聞いてるんじゃない。彼女に聞いているんだよ」 完全にこちらの足元を見られている。 所長はこの大口の顧客に対して何も言えない。 代わりにさっさと応えろと、私を睨んで来る所長に促されるままに応えた。 「紺野です」 「コンちゃん?ふぅん、子ぎつねみたいだ。下の名前は?」 幼い子に訊ねるようなそれに、私は益々眉根を寄せた。 「雪乃……紺野雪乃です」 「紺野雪乃、ふふっ。だったら、野乃ちゃんだ」 人の好い笑みを向けられても、戸惑うばかりで反応に困る。 曖昧に頷くような会釈でもって、その時は仕事に戻った。 けれど、男の視線がまだ追いかけて来ているようで、私は振り返ることが何だか怖かったことを覚えている。 とは言え、視察などそうあることでもない。 もう会うことは無いだろうと、私は踏んでいた。 そんな私の予想に反して、彼は差し入れだと称して菓子を手土産に、わざわざ私の元にまでやって来るようになったのだ。 「ちょっと、野乃ちゃんを借り受けるね」 挙句、公認のように私を外に連れ出そうとする始末。 「支社長、お待ちください、私には私の仕事があるので困ります!」 生産が滞ると伝えるも、聞く耳を持たない。 なのに、皆も止めるどころか黙認である。 この頃にはもう、警戒の警報はずっと鳴りっぱなしだった。  そして今もまたそれが鳴り始めている。大音量で――。 「急いでいますので、どうぞ道を開けてください。でないと車輪で足を轢いてしまうかもしれません」 冷たい眼差しを向ける私に反して、何がそんなに可笑しいのか、彼は愉快そうに目を細めた。 「ふふ、相変わらず、突っ張って生きてるんだ?威嚇する猫みたいで本当に可愛いねぇ」 『僕の妾にしてあげようか?』 かつての彼の言葉が甦り、私は肩を震わせた。 『後ろ盾が何も無いなんて可哀想だ。さぞや心細いだろう?』 彼は人払いのされた事務所に私を連れて行き、平然と距離を詰めてきた。 下請け工場は立場が弱い。 それを逆手にとって、人身御供のように私は嵌められたことを知った。 誰の庇護下にもない私の人権など、無いに等しいものだった。 私を庇う者などいない。 身体が震えた。 いつだって、怒りは怯えを凌駕する。 「――鳩尾(みぞおち)」 牽制だ。 思い出させるように呟けば、今もまた無遠慮に私に触れようと伸びてきた手が、ピタリと寸でで止められた。
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