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「雪乃さん?」 私の名だ。 まるで、その声が天の救いに聞こえた。 「嗚呼、買い出しですか?大変そうですね。手を貸しましょうか?」  振り返った先の声の主は、『ひじり荘』の下宿生――林さんだった。  男は憚ることなく舌打ちを零し、林さんに向かって目を眇めた。 いくら男が凄もうと、林さんは一歩も退く気は無いと、泰然としてそれを受け止めている。 その一拍ほどの沈黙の間、この先がどう転ぶことになるのかは、男の出方にかかっていた。  男の冷ややかな眼が、再び私に向けられた。 「せいぜい、媚び売って底辺を這いずってろよ」 それを捨て台詞に、男は私たちに背を向けた。  表通りの人ごみに、男が消えるのを見届けた後、どちらともなく、ほぅっと、安堵の息を吐く。 足から崩れそうだったのを、私はかろうじてリヤカーの持ち手を握り込むことで堪えていた。 何事にも控えめな林さんの性格からして、あれほどに不穏に満ちた空気の中、私に声を掛けることは、さぞや勇気の要ったことだろう。今の私と同じように、彼もまた拳を握り込むことで虚勢を張っていた。 「ありがとうございます。本当に、本当に、助かりました」 私の声に、険しかったままの眼鏡の奥の目が、ゆっくりとこちらを見遣った。 どうやら、林さんはカチコチに固まっていたようだ。 分かります。本当に。 言葉無く訴える林さんの目に、私は頷きでもって応えていた。 「ゆ、ゆ、雪乃さん、何なんですか?何なんですか!?あの人は!?」 盛大に動揺する林さんに、おいそれと説明できるものでもない。 「そうですね、何なんですかね。私も本当に困ってしまいました」 私は力なく笑って、肩を竦める。そして、仕事の途中であるのだろう、林さんが片手に抱えている鞄に目線を向けた。 「お仕事の途中ですよね?私を見つけていただいて、ありがとうございました」 丁重に頭を下げれば、彼は苦笑いを零した。 「いやぁ、ちょっと腐っていて、ぬけぬけと大通りを歩く気になれなかったんですよ」 それで、人気のない路地裏を歩いていたらしい。 林さんは営業職だ。 きっと、顧客を得られなかったのだろう。 本人は向いていないと考えてるようだが、腰の低い彼には存外に向いていると私は思う。 「営業は懇切丁寧が最後はやはり勝つと思います。私、そういう方に弱くてつい買い求めてしまいますから」 「雪乃さんはお人好しですからね」 林さんは肩を竦めた。 「あら、林さんもでしょう?うちのご隠居さんにせよ、皆さんにせよ、そうした層がきっと多い証拠です。ふふっ、だったら勝ちじゃないですか」 営業は少しの勇気と誠意であると、かつての私は学んだ。 「じゃあ、その当たりくじを引きにもうひと踏ん張りしてきますか」 その意気だと、私は頷いた。 「今日は揚げたてホカホカのコロッケです。楽しみに帰ってきてくださいね」 「独りで帰れますか?」 彼の案じた目に私は強く頷いた。 「はい。私も負けずに強いですからね」 確かな笑顔でもって、私は彼を送り出していた。
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