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 その夜、食堂を閉めた私は、戸締りしたばかりの勝手口を叩く音に眉根を寄せた。 「はい、どちら様ですか?」 『俺です。沢渡です』 誰何(すいか)に返った声は納得する人のものだった。 こんな時分に私を訪ねてくる心当たりは彼くらいだ。 (かんぬき)を空けて中に招き入れる。 「……雪乃さん、そんな嬉しそうな顔を向けないで下さいよ」 どうしてか善次郎さんは額を抑えて、うなだれた。 「え?喜んではいけない場面でしたか?」 それなら前もって言っていただかないと、どうしたって喜んでしまうというものだ。 「どうかされましたか?」 薪を取りに裏庭の納戸に向かった折には、工房の灯りが漏れていたことに気づいた。この時分にまで仕事をされているのだと、労っていたところだったのだ。 「夜這いです」 はっ!? へっ!? 「い、い、今なん、何ておっしゃいました!?」 ワタワタと慌てふためいてしまい、両手を胸元であわあわと震わせる。 「え、えっと、すいません。わ、私、お風呂にはまだ入っていなくて……って、何を笑ってるんですか!?」 動揺するあまりに、妙なことまで口走ってしまったというのに、彼は口元を抑えて笑いを堪えている。 「くっくっくっ。はぁあ、雪乃さん、可愛らしすぎです」 思いっきり、からかっておいて何だというのだ。 真っ赤になって頬を膨らませる私を、善次郎さんはふわりと腕の中に囲ってしまう。 「怒っては駄目です。怒っているのは俺の方なんですからね」 「は?……はい?」 怒っているのに、この状況なんですか? 善次郎さんの腕の中に囚われたまま、私は意図することが分からずに彼を見上げた。 「俺は雪乃さんを叱りに来たんです。どうして、俺に何も言ってくれないんですか?」 私としては、随分と色々なことを彼には話している気がするというのに、益々解せない。 「林さんから聞きました。街で妙な男に絡まれていたと。『自分がいなければ、かどわかされていたんじゃないかと恐ろしかったです』と、彼は言っていました」 かどわかされる――。その言葉は私の身体を固く強張らせた。 「それは……怖かったです」 『でも、もう平気ですよ』と、続ける筈だったのに、善次郎さんが私を一層に抱き竦めたお陰で、その言葉は続かなかった。それどころか、今頃になってじわりと目頭が熱をはらんでしまう。 善次郎さんは、固く張っている心の糸を、いとも容易く緩めてしまうのだ。 「わ……私、泣き虫じゃないんですよ?」 泣きたくなど無かったのだ。 『女は直ぐ泣く』『これだから女は面倒なんだ』『女は泣けば許されると思ってるよな』 女性の社会的地位はそのように愚弄されている。 男性と同じ働きをすると決めた以上、私は絶対に泣かないと決めていた。泣かない術など疾うに身に付けていた筈だった。なのに、どうしたことか上手くいかない。 「俺の前でくらい泣いてくれないと、俺も雪乃さんの前ではおいそれと泣けません。そんなのは寂しくないですか?」 善次郎さんの涙――私は知っている。 (みぞれ)交じりの雨の降りしきる中、葵さんの墓前に傘を差し、彼は人知れず雨に紛れて泣いていた。その姿は痛々しく、男の人は、こんな時でさえこのようにしてでしか泣けないのだと、哀れに思ったのを覚えている。 「雪乃さんは……急に消えていなくならないでくださいよ」 少し、冗談めかしたように善次郎さんは言う。 でも、その声が微かに震えているように、私には聞こえてしまった。
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