疎外感

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 ご隠居さんに報告し、私たちの仲が晴れて公認とされたことに加えて、私の生活環境は、少しずつ変化を見せていた。  「こんばんは。少し、早かったですかね」  勝手口から慣れたように入って来るのは善次郎さんだ。  食堂を閉める時分になると、時折、いえ、毎日のように善次郎さんは私の元に通ってくれるようになった。 「いいえ、丁度終えたところです。お茶請けは、奈良漬けで構いませんか?」 彼はいつも遅くまで仕事をしているようで、休憩がてらにこうしてお茶をしに訪ねて来ることが日課になっていた。  戸棚には、頂き物の羊羹もあったのだが、彼はそうした甘いものが苦手だと知っている。 「はい、十分です。外は寒いですよ。そろそろ降るかもしれませんね」 初雪が降りそうだと零す彼に、何だか『百夜(ももよ)通い』のようだと、私は幾分に心苦しく思う。  百夜通い――小町に求愛した少将が、小町の元に百夜通えば契りを結ぶと言われて通い続けるのだが、九十九日目の雪の降る夜に命を落としたという悲恋。 「善次郎さん……遅くまでお疲れ様ですね」 (無理をしていることになっていないと良いのだけれど……) 何と言っていいのか気持ちが言葉にならず、型通りにしかならない。 「こちらでひと息つけると思えば、仕事は驚くほど(はかど)るんです」 思いもよらない何気ない言葉に、私は本当に言葉を失う。 もう、どうしてこの人は……いつも、いつも、こうなんだろう。 私の心をいともあっさり掬い上げていくのだ。 (私も、少しは彼の力になっているのだろうか?) 「私は、善次郎さんとお話が出来て嬉しいばかりです」 せめて、心のままを素直に伝えたい。 そんな思いで本心を口にしながら、煎茶に、奈良漬けを添えた盆を手に、いつも通りに階で彼と隣り合った。 「ありがとう」 善次郎さんは微笑んで、熱いお茶に喉を潤した。 彼は熱いままをそのまま好む。 でも、私は少し冷まさないことには飲めない猫舌だ。 少しの間を盆に置いたまま、彼の飲むさまを見るともなく眺めるのも常だった。 「手もですが、善次郎さんは舌も強靭ですね」 湯呑を盆に一旦戻して、彼は奈良漬けを摘まむ。 彼の口からカリコリと歯切れのよい音が、静かな土間に響いた。 「慣れですよ。あなたの舌も慣らせば、俺のようになる」 実は試しにやってみて、火傷をしたことを明かして苦笑いを零した。 「お陰で、当分はまた冷ましたものでないと無理ですね」 「そうまで俺と同じにしないでも、同じにできますよ」 『見せて』と、ささやきと同時に口元を覗き込まれ、私は遠慮がちに舌先を見せていた。 「本当だ……少し、赤い?ですかね」 言うや、私の少し赤らんだ舌に彼の指が添えられた。 突然のことに驚きで身を固まらせたが、彼の指先は冷たく、舌先の痛みは和らいだ。 他人にこんなことをされたのは勿論、初めてのことだ。 『お母さん、火傷した』 子供の頃から熱いものは苦手で、味噌汁を飲んだか何かで、赤らんだ舌を母に診せたことならある。 『あら、あら、本当ね』 触れてきた母の指先もまた、冷たかったことを思い出した。  けれど、この(ひと)は母であろう筈がない。  母と同じように優しい目を向けられているというのに、母には無かった獰猛な焔を宿して見えた。 「雪乃さんは俺に対して無防備ですよ」 ふふっと零した彼の無邪気な笑みに安心感を覚え、私も同じようにほのかに目を細めた。 (だって、何処に警戒する必要があるの?)  指先に代わり、次いで舐めとるように触れてきたのは彼の舌先、追うように塞がれた唇――これが、西洋映画で目の当たりにしたことのあるキスと呼ばれるものだと、理解したのは彼の唇が離れた後だった。 「だから、言ったんです。こういうことになるんですよ」 慈しむように私の頬を包む彼の手は、舌先に触れたそれとは違い、まるで湯たんぽの様に温かい。 脳が酔いしれ、思考回路が完全に麻痺していた。 「……同じでした」 触れ合った舌先の熱は、互いに同じ温度だと知った。 どうやら言った本人も忘れていたようだ。 キョトンとした顔になった善次郎さんは、ぷっと、吹き出してしまう。 「くふふっ、ですね」 もう一度しますか?と、詰め寄られて、私は慌てて首を横に振る。 「こ、これ以上は、ふ、深酔いして目を回してしまいそうです」 深みに嵌って、もっと欲しいと、思考が淫らに侵される。 「でも、慣らしておいた方がいいですよ?」 たじろいでばかりの私とは裏腹に、悪戯に微笑む彼は余裕綽々である。 「そ、そうですね。でも、その、少しずつで……」 何か話題を変えようと、私は必死に目を彷徨わせた。 「あっ!お、お茶!お茶が冷めてしまいましたね」 淹れ直しましょうと、腰を上げようとした私の手を掴んで彼は止めた。 「すいません。あんまり可愛らしい反応をされるので、調子に乗りました。逃げないでください」 急に真面目な顔を向けてくる彼に、私も居を正す。 「雪乃さん、春には俺と祝言を」 力強く断定したその言葉に、私はただ頷くことしか出来なかった。 視界が霞んで、こんな時の涙の止め方など、私は知らなかったのだ。
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