疎外感

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 自分がこんなに涙脆いなんて知らなかった。  涙を掬い取るように口づけられて、私は驚きに涙を止めた。 「雪乃さんは泣き虫で構いませんよ。俺が丸ごと受け止めますから」 物理的にもねと、彼は快く笑う。  八つも年上の、大人の男の人であるのに、少年の様に稚く視えてしまう。 甘やかされているのは私である筈なのに、可愛らしいなどと思ってしまったことが恥ずかしい。 「雪乃さん?」 「……私も受け止めます。善次郎さんのことも、なっちゃんや、宗ちゃんのことも。受け止めさせてください」 彼の手を取ったあの日、私は逃げない覚悟をしたのだ。 善次郎さんは僅かに目を瞠って、私の覚悟を確と受け止めるように頷いた。 「雪乃さんには……あまり俺の家のことの話をしたことが無かったですよね」 小さく息を吐いて、私の手に自身の手を絡めた。 大事な話になるのだろうと、彼の手から強張ったような硬さを感じながら、その手を握り返す。 「嫁いだお姉さんがいらっしゃると、以前に少しだけ……」 「はい。本来、沢渡家の本家は姉の嫁いだそっちが正統なんです」 沢渡家は代々大工家業を担ってきた。 「ははっ、それこそ江戸の頃からだと話には聞いています」 善次郎さんの姉は従妹同士での婚姻だという。 「一応、政略婚というものになるんだと思います。俺の親父と不仲だった本家の伯父との和解みたいな意味合いだと、俺は思っていましたから」 姉にとっては良いご縁では無かったのだろうかと、憂いた私を否定するように善次郎さんは慌てて付け足した。 「今では、おしどり夫婦ですよ。嗚呼、若干違うか。なんせ姉さんは気性が激しいからなぁ」 尻に敷いているところがあると、彼は辛く笑う。 「なんせ、職人気質な男ばかりで……頑固者の巣窟みたいなもんです。偶にはどやしたくもなりますよ」 雪乃さんも遠慮なくどうぞと言われても返答に困る。 「ふふっ、善次郎さんは私の前では猫かぶりですものね」 伊藤さんの前でのことは腰が引けたことを明かす。 「雪乃さんは工房には来ない方がいいですね。幻滅されそうです」 あんなのは日常茶飯事なのだと肩を竦めた。 「あら?私も、そんな大人しい女じゃありませんよ」 「なら、猫かぶりですかね」 サラリと嬉しいことを言うものだから、顔がだらしなく緩みそうになる。私は下唇を噛んで、慌てて堪えた。 「……やっぱり、駄目です。雪乃さんは工房立ち入り禁止です」 どうしたことか禁止令が敷かれてしまった。 私はちょっと待ったという風に、遠慮がちに手を掲げる。 「少しだけ覗くのはいいですか?私、善次郎さんが(かんな)を掛けているのを見るのが好きなんです」 こっそり覗き見たことがあることを明かせば、彼は目を瞬いた。 「え?!いつ見ていたんですか?」 「えっと、その……奥様がご存命の時です。奈津を遊ばせようとして、廃材をいただきに伺ったんです」 積み木にしようとしたのだ。 「あっ、あの、でも、その時は誓って善次郎さんに邪な気持ちなんてちっとも……。ただ、凄く面白そうだなと――」 薄く透き通る羽衣のような被膜を舞わせて、軽快に削る様を、奈津と二人で窓越しに、いつまでも飽きずに眺めていられたことを話す。 「大事にしてくださいね」 無意識に彼の手を取っていた。 一朝一夕で成し得ない技を持つこの手は希少な宝だ。 どうしたことか、見上げた善次郎さんの目が悲し気に揺れていた。
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