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何か不味いことでも言ってしまったのだろうかと、私は口を噤んだ。
「あ、あの……善次郎さん?」
「いえ、雪乃さんは俺の兄と同じことを言うなと、少し兄のことを思い出していました」
「善次郎さんのお兄さん……ですか?」
名からして確かに善次郎だ。次男であることを明かしている。
「俺には三つ上に兄がいたんです」
「……戦争へ行かれたんですか?」
終戦は今から十六年前のこと。
善次郎さんの三つ上ということは、お兄さんは当時十九歳。
苦戦の戦況に伴い、兵役制度は満二十歳以上から十九歳に改定されていた。
静かに頷いた善次郎さんは、悔し気に顔を歪めた。
「戦死したのは……終戦のほんの一週間前のことでした」
もし――、たら、ればを、遺された者はいつだって考えずにはいられない。
(今、彼の手を握っていて良かった……)
掛ける言葉の浮かばない代わりに、私はただ固く手を握った。
「あの頃は作るものも軍需に向けたものが多くてね……。木製尾翼なんてものを試作したり――異常な時代でしたよ」
それでも、木を触っていられることがありがたかったと、善次郎さんは当時を振り返る。
「現実逃避するように、黙々と木ばかりを相手にしてました。それでも、尚も、追い打ちを掛けて、現実は厳しかった」
兄に、出兵命令が出た。
『運命だ――お前はきっといい職人になるよ』
運命――どちらを指して口にした言葉だったのだろうか。
兄と弟の明暗を分けた命運。
「まるで手相でも見るように、俺の手を見て『大事にしろよ』と、やるせない顔で、それでも兄は笑っていました」
その顔が忘れられないと、善次郎さんはまるで泣いているように悲しみに顔を歪めた。
「兄には許婚がいたんです。建材屋の娘で、静流さんと言います。兄と盃を交わして、二人は形だけは夫婦になりました」
大工や建具屋にとって建材屋は生命線なのだと、善次郎さんは私に説く。
「かの近江商人の教えで言うように『三方よし』が商いの基本です。良質な木があってこそ、俺たち木工職人の腕は活かされる。良い品を作れてこそ、世間に普及する」
三方よし――売り手良し、買い手良し、世間良しの原理。
「兄が戦死したことで、後釜に今度は俺にお鉢が回ってきました。けれど――」
善次郎さんは葵さんを選んだ。
「俺は勘当も同然に独立して、今に至るわけです」
葵さんが嫁として迎えられることはなかった。
葵さんの葬儀に、善次郎さんのご家族は参列していないようだった。縁戚が薄いことは何となく気付いていたが、そういう訳だったのだ。
「それまで何の音沙汰もなかった俺の実家が、凝りもせずに俺に縁談の話を振って来たんです」
善次郎さんの眼差しに影が差した。
「手紙には『そろそろ家に戻って、家督を継げ』と、今更な話をつらつらと……」
侮蔑の色味を濃くして、善次郎さんはグッと下唇を噛んだ。
そろそろ──葵さんの三回忌が明ける頃を見計らっていたのかもしれない。
「風呂の火種にくべてやりましたよ」
善次郎さんは忌々し気に吐き捨てた。
でも、それで本当に良かったのだろうかと、私は押し黙ったまま彼の話の先を待った。
「親父は本家の姉夫婦まで引き連れて、この正月に挨拶に来ると言っています。何を言ってくるのか分かりませんが、どうせ煩いものに決まっています」
私に言い難いことがあるのだろう。善次郎さんは硬い表情を私に向けて来た。
「雪乃さん――」
「はい」
何を言われても受け止める覚悟で、私は身構えた。
「俺はそこであなたを紹介したい。あなたにはきっと、いやな思いをさせてしまいます。それでも俺と一緒に闘ってくれますか?」
善次郎さんにとっての最善を考えるなら、私は身を退くことも考えなければならなかったのかもしれない。けれど、善次郎さんのその言葉は、やはりどうしたって嬉しくて、つい満面の笑みを向けてしまった。
「はっ……ひゃっ」
グイっと引かれた手に抵抗など出来ない。
私の返事を待たずして、善次郎さんが急に私を引き寄せるものだから、勢い余って彼の懐に雪崩れ込むように飛び込んでしまう。
挙句にギュウ、ギュウと力任せに抱き締めてくるものだから、何だか次第に可笑しくなってきてしまい、私はくつくつと笑みを零してしまった。
「くふふっ、これでは、逃れようがありません」
遂には善次郎さんも一緒になって吹き零してしまう。
「くくくっ、まったく、雪乃さんは知らないからそんな風に笑っていられるんです。相当な頑固親父ですよ。先ず折れることがない」
笑みを零している私の頬をそっと摘まむ。
その優しい眼差しに、私の顔は益々綻んだ。
「でも、一緒なら譬え地獄の沙汰だって平気な気がしますよ?」
善次郎さんの一番近しいところにいることを許されるのなら、私は無敵な気がしてくる。
だって、この上なく心強い。
負ける気がまるでしない。
嗚呼、そうか。
これが甘えるということなんだと腑に落ちた。
「……本来なら俺の背に隠しておきたいところなんですよ?でも、あなたを俺の背に回しておくと、気付かぬうちに俺からも逃げて行ってしまいそうなので、傍にいてください」
「それは……何だか、随分な信用度ですね」
私とは、まだそんな薄っぺらな信用でしかないのだと少し落ち込んでしまう。
「ええ。きっと、俺ほどには好いてもらっていないと思います」
「そんなことないです」
眉根を寄せて抗議する。
「いいえ、あります」
同じ顔で抗議されてしまう。
「……分かりました。少し時間をください。私だってきっと、証明して見せますから」
『俺が寄り添うに能う男だと証明して見せます』
かつての台詞通りに善次郎さんは証明してくれた。
ならば、私とて証明しなければならない。
「私からこの手を離すことはありません。覚悟しておいてください」
善次郎さんに宣戦布告を果たして私は彼から身を離した。
「え?ゆ、雪乃さん?もしかして怒ったんですか?」
「はい。怒っても仕方のないことですけど、怒っていますよ。でも、待っていてください。私、きっと証明して見せます」
善次郎さんの手を手放さないと証明することなんて、きっと簡単だ。
この時の私は、そう信じて露 ほども疑わなかったのだ。
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