疎外感

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 年の瀬がそこに見えてくる頃、出稼ぎ労働者は都市から郊外に向けて引き揚げ始めていた。  それは『ひじり荘』でも同じである。  まだ少し早いが暮れの挨拶を兼ねて、私は下宿生の皆さんから帰省の日程を伺いに、個々の部屋を訪ねようとしていた。 「紗代さん、そんなにめかし込まなくとも大丈夫ですよ。皆さんの方も部屋着でいらっしゃる筈ですからね」  当初、ご隠居さんの娘さんご夫婦は年明けに越してくる予定であった。けれど、師走に入って直ぐに孫娘の紗代さんだけは、逸早くこちらに移り住んできたのだ。  てっきり、逸早く仕事に慣れるためかと感心すれば、そうでは無かった。 「何が出会いになるか分からないじゃないですか。私、何としても自分で恋人を見つけないと、お見合いをさせられるんですよ!?」 お見合いがそう悪いものだとも思わないが、自由恋愛に焦がれる紗代さんは、親の決めた縁談に乗る気は一切無い様で、『自分の嫁ぎ先くらい、自分で見つけてきます』と、啖呵を切って家を飛び出してきたのだという。 とは言え、紗代さんが鏡台の前に居直り、かれこれ一時間になる。 念入りに化粧を施し、腰ほどの長い髪をああでもない、こうでもないと結っては解いてを繰り返している。 このまま放っておけば、陽が暮れてしまいそうだと、私は小さく嘆息した。 下宿生が引き揚げてしまうとは言え、年始に向けて『ひじり荘』を整えるのも管理人の仕事だ。年の瀬とは目を回すほどに忙しい。 貴重な週末を無駄にしたくはなかった。 「もう、私だけで済ませてきますが、構いませんか?」 これから各部屋を訪ね、皆さんの帰省予定を伺わねばならない。そして、帰省中の留守を預からせていただくのだ。 「って、何言ってるんですか!?妙齢の娘がのこのこと、用もないのに男性の部屋の戸を叩けるわけがないじゃないですか!?」 「では、参りましょう。今すぐです」 私は有無を言わさぬ眼光で、『お洋服を着替えてから』と、言いかけた彼女の口を閉ざさせる。 「雪乃さんはケチですね」 紗代さんは可愛らしい小さな口を尖らせる。 「はい。『時は金なり』は、私の信条です」 紗代さんは今どきの年若いお嬢さんらしく、垢抜けた可愛らしい方なのだが、仕事に対しての熱意は非常に薄かった。 (まぁ、紗代さんは行儀見習いにお預かりしているようなものだものね……) これが家族経営の難しいところだ。 公私の線引きが曖昧で、仕事に甘えが許されてしまう。 私は小さく嘆息しながら、紗代さんに紙を挟んだバインダーを手渡す。 紙には部屋番号と下宿生の名前が記入してあった。 「そこに帰省予定日と期間を記入してください。それから、留守中にこちらが気に留めておくことがないかを尋ねていくので、あれば書き留めて下さい。それに、部屋の清掃、障子や襖の張替えの要望がないかも尋ねていきます。要望があればその工程も決めていきます」 「ええぇ!?それ、私たちがするんですか?」 紗代さんは拒否する声を上げる。 「概ね、皆さん綺麗に使われていますが、障子や襖の張替えまでは手が回らないのが普通です。中には掃除も苦手とする方もいるので、頼まれることはありますよ」 大抵は平日の留守の間にしてしまうので、その際の貴重品の管理は負わないこと、その日は鍵を預からせていただくことを了承してもらう書面が綴りになっている。 二枚目がそれだと、紗代さんに見せた。 「何だか……御大層ですね。契約書みたい」 みたいではなく、契約書だ。 工賃はいただいていないが、張替に掛かる必要経費はいただく旨も見積と共に記載してある。 「これもそうですが、他にも施設を管理する上で規則は必要です。曖昧だと問題になりかねません」 浴場などの共用部分の利用時間なども決められている。 「掃除くらいなら何とか……でも、私は張替はしたことがないです」 家では建具屋に依頼するのが常だったという。 「昔、私の小さい頃には母がしていた記憶がありますが……」 「大丈夫、そんなに難しくありません。私がお教えしますから、丁寧に愉しんでやりましょう」 少々失敗しても、年々上手くなっていくものだと微笑んだ。 「愉しんで……て、掃除なんてちっとも楽しくないですよ」 「そんなことないです。綺麗になると嬉しいですし、皆さんにも喜んでもらえます」 「雪乃さんは掃除が好きですよね……いつもピカピカですもん」 私が先ほどまで磨いていた窓ガラスや、黒光りしている廊下、それに洗面台を紗代さんが感心して見回す。 「ふふっ、その眼ですよ。私のやる気に火がつくんです」 嬉しいですと、少し得意げに私は顔を綻ばせた。 「いつも綺麗に大事にしておくと、使う人も丁寧に使ってくれるものなんですよ。今後の修繕費の節約にも繋がります。掃除に飽いたら、私はそんな風に打算的に考えるようにしています」 例えば、庭掃除を厭うなら、庭師に頼むより節約できると考える。 「管理人の仕事はお家でされている家事手伝いではありません。月末には勿論、紗代さんにも給金が出ます。給金をいただく権利を得るなら、見合う働きをする義務があります。手を抜かず、しっかりやり遂げましょう」 紗代さんは『……分かりました』と、今一つ力の無い返事で肩を落とした。 私なら絶対に喰い付く『給金』では、紗代さんのやる気を煽るキーワードにはならなかったようだ。
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