疎外感

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「京橋さん、大卒なんですか!?凄ぉい!頭が良いんですねぇ」 紗代さんが、もう何度目かになる歓声を上げる。 皆さんと早く近しくなりたいのだろう。『素敵』や『凄い』を連発しては、愛嬌を振りまいていた。 「いえ、本当は大学の教授の元で助手に収まりたかったんですが、そこまでの能力が無くてね……。しがない町工場の開発部に収まることに――」 延々と立ち話が続いて、まだまだ終わる気配が見られない。 「開発部だなんて、それだって素晴らしいことじゃないですかぁ」 可愛らしい紗代さんに持ち上げられて、皆が皆、鼻の舌を伸ばして、いつになく饒舌になっていくのだ。  信頼関係は大事だが、管理人としての線引きが薄らぐことに私は危うさを感じていた。 京橋さんが済んだところで、私は紗代さんの袖を引いた。 「紗代さん、管理人は友達になる必要はありません。時には厳しく言わなくてはいけないこともありますから、線引きは大事なんです」 それに、紗代さんも下宿生らも年若い。 「あまり気を持たせるような発言は控えるべきです。気を付けてください」 何か間違いが起きてからでは遅いと、私は案じた。 「……私、そんなつもりは全くありません。雪乃さんは私のこと、身持ちが軽い女だと思っているんですか!?それに、そんなに皆さんが信用ならないんですか!?」 ジワリと瞳を潤ませ、紗代さんは抗議の目を私に向けて来た。 (しまった……。言い過ぎたか?) 私は慌てて首を横に振る。 「いえ、そうでは無くて、危機管理の問題という話です。心にとどめて置くことが大事なんです」 ここは学校でも、社交の場でもないのだと諭すも、彼女は不服そうに『そんなことは分かっています』と、小さく零してそっぽを向いてしまった。 ボーンと柱時計が四時を過ぎる鐘を打つ。 その音に半ば救われた心地で、私は紗代さんにバインダーを差し向けた。 「では、そろそろ私は仕事がありますので後をお願いしてもよろしいですか?」 夕餉の支度に移らねばならない。 「えっ!?わ、私一人でですか?そ、それはちょっと……」 あれほど気さくに話しておいて、紗代さんは人見知りなのだと主張した。 「紗代さんはお話上手ですし、皆さんも心安い方たちばかりですので大丈夫ですよ」 私が傍にいることで安心感に浸っているのであれば、危機管理能力など備わる筈もないかと、納得がいく。 「そ、それでも……男の人の部屋に伺うのは……ちょっと」 部屋と言っても扉口だと、半ば頭を抱えたくなった。 紗代さんは女学校上がりの箱入り娘。 それに加えて大層な内弁慶だと知る。 「大丈夫です。管理人として泰然としていれば、互いがきちんと距離感を維持できますから」 安心していいと言うのに、紗代さんはバインダーを腕に抱えたまま不安げに首を横に振る。 「雪乃さん、そんな意地悪をしないで一緒に来てください」 (い、意地悪……なのか?) 潤んだ瞳で見上げられると、何だかそんな気がしてくる。 「仕方がありません……では、一旦打ち切りましょう」 頷いて部屋に戻ろうとする紗代さんを私は引きとめる。 「明日からは買い出しにも一緒に来てくださいね。商店街事情にも詳しくないと、原価を下げられませんから」 「えっ!?あのリヤカーを私が引いて歩くんですか?」 思いっきり、顔にいやだと書いてある。 「紗代さん、私は年度末でここを去るんですよ?紗代さんがお母様の助けになってあげないと、食堂経営はきっと立ち行かなくなります」 「えっ!?で、でも……私もいずれはお嫁に行きますよ?」 いかに上目遣いで見つめられても、私にもどうにもならない。 「それまでにはお母様も慣れていかれますよ。何事も最初は大変ですから、支えて差し上げてくださいね」 それでも手に余れば誰か人を雇うか、食堂での利益収入を削ればいいと説く。 「賃貸経営だけでも利益は出せます。ただ金利が上がれば利潤も当然目減りします」 食堂経営はその補填になると思って始めたにすぎない。 「でも……利益があるならそれで――」 「折角の常連さんを逃すことになるのは忍びないので、続けられるに越したことはありません」 紗代さんの手を取り、『頑張りましょう』と、励ます。 「で、でも、私、お料理が得意だというわけでも無いです」 狼狽える紗代さんに、私は企みを持って目を細めた。 「あら、お料理上手な人は目当ての方を射止めるのも容易いですよ?益々頑張りどころですね」 「わ、分かりました。では、雪乃さんが責任を持ってしっかり、教えてくださいよ」 少しばかりやる気が出たようで、してやったりと内心で舌を出す。 「では、早速にお願いします」 炊事場に連れて行こうとする私に紗代さんはギョッとする。 「わ、私はそんな割烹着なんて着ませんよ」 私の割烹着姿を指さして臆することなく言うのだから、思わず笑ってしまった。 「ふふっ、私はこの方が着心地が良いんですよ。しっくりきます」 今どきの娘は和装よりも洋装だし、割烹着よりもフリルの付いた可愛らしいエプロンだ。 「雪乃さんは若いくせに時代に逆行してますよね。きっと直ぐに老け込みますよ」 「ゔっ……き、気を付けます」 流行り廃りに疎いのは確かだし、その自覚も多分にある。 でも、私に女の『い』『ろ』『は』を教えてくれたお妾さんは、常が和装だった。素晴らしくお綺麗な人で、それこそ見惚れるように背筋の伸びた(ひと)だった。 世間の蔑んだ目などものともせずに、あんな風に凛として生きたいと私は羨んだのだ。 「でも……綺麗だとは思いますよ。雪乃さんらしいですもの」 何やら、ぼそりと陰口ように零した紗代さんの声は私には届かなかった。 紗代さんは、悪戯な目をして私を覗き込んで来る。 「知っていますか?」 「?」 「皆さん、雪乃さん狙いです。あなたの方ばかりに皆さん意識が向いて、ここぞとばかりに必死にアピールなさってたんですからね」 「???」 「疎外感たっぷりで、私だって必死になるじゃないですか。大盤振る舞いで持ち上げたくもなりますよ」 紗代さんはご隠居さんのお孫さんだったと納得する。 どこをどう見てそう感じたのか知れないが、見当違いも甚だしかった。 私は大きく嘆息し、遠い目を向ける。 「紗代さんはもう少し見る目を養われてください。でないと、狼にぱっくり、ごっくんですよ」 脱力のあまりに、その後に続く紗代さんの抗議の声などまるで無視して、私は炊事場に向かったのだった。
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