疎外感

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 私――鳥居紗代(19)が『ひじり荘』にお世話になり始めて二週間ばかりが過ぎた。 「嗚呼、こんなはずじゃなかったのになぁ……」 近頃の私はまるで灰被り姫。 お洒落をして街へ遊びに行くことも出来ずにいるばかりか、慣れない水仕事ばかりで手荒れも酷い。 それもこれも私の傍らで怒涛の如く働く彼女――雪乃さんがいるせいだ。 「雪乃さぁん、一体いつになったら休憩するんです?」 廊下から階段、そして浴室を磨き上げていく雪乃さんにため息を吐いて私は声を張った。 「すいません、今日の休憩は無しです。時間が押しているので、チャップリンでお願いします!」 チャールズ=チャップリン――偉大なる『喜劇王』。パントマイムにこだわり、無声映像を好んだ奇才として知られている。当時の映写機のコマ数とTVのコマ数の違いからまるで早送りにしているようにその映像は映る。 「無言で身体を速く動かせと……そういうことですか」 溜息を零すも、私だって分かってはいるのだ。 (時間が押しているのは私の所為だものね……)  リヤカーを引いて買い出しに出かけた私がなかなか戻らないと、心配した彼女が迎えに来たのだ。  巷はクリスマスシーズン。  陽気な空気に誘われ、私は少しばかり喫茶店でケーキを食べて油を売っていた。ほんの少しのつもりが、そこでばったり懐かしい卒業以来の友人に出会ったために、話し込んでしまったのだ。  随分探したようで、雪乃さんは息を切らせていた。 それでも何ら怒ることなく、安堵の息を吐いて、へにゃりと驚くほどに情けない顔を見せた。 『ご、ごめんなさい』 謝る私に、雪乃さんは首を横に振った。 『落ち度ではありません。少し過保護に心配し過ぎてしまっただけなんです。陽が落ちる迄に戻ってくださればいいんですよ』 雪乃さんは優しい。 『でも、過ぎて貰っては困りますよ。さぁ、暗くならないうちに急いで帰りましょう。今日は紗代さんに煮付けを伝授しますからね』 それでいて厳しくもある。  高等学校を卒業したものの、私の就いた職はお茶汲みと愛想笑いだけで良いというようなつまらない仕事だった。 『女の君に任せられることなんて高々知れているだろう?』 悔しいけれど、言い返せる自信も無かった。 頑張る気力も湧かずに、そんな仕事はすぐに辞めてしまう。 けれど、他に何がしたいということも無く、手持無沙汰で家に居る日々に焦りばかりを募らせていた。そんな娘を厄介払いしようと、見合いを勧めてきた親には反抗して家を飛び出し、向かった先は好々爺の祖父の元だった。 『よく来たねぇ。紗代が来てくれないかと、待っていたんだよ』 にこにこと迎えてくれた祖父は期待通りに優しくて、ほぅっと、安堵の息を吐いた。 『これまで管理人をしてくれていた雪乃さんが年度末で此処を辞めていくからね、紗代が手伝ってくれると助かるよ』 そう言えば、母にそんな話を聞かされた覚えがあった。 『あ、うん。いいよ。居候だもん。手伝いくらいするよ』 気楽に返事をしたあの時の自分を呪いたい。  チラリと横目で、ゴボウのささがきをする雪乃さんを盗み見る。 手元が神業のように速い。 きちんと頭に白い包を被り、パリッと仕立てた割烹着に身を包む彼女は、見惚れるくらいに正しい姿勢。 そう、この(ひと)はいつもキチンとさんだ。 私みたいにだらしないところを見せたことがない。 しかも、十分に美人に分類される。 普段が裏方家業に徹しているせいで、事実として色気も華も無いかもしれないが、色白の頬に形の良い鼻や長い睫毛は、横から見ていれば素材が良いことが尚更によく分かる。 「――紗代さん」 そう、何より惹かれるのはこの凛々しい目だろう。 『ひじり荘の高嶺の花』 『隠れ美人』 下宿生たちは彼女を指してそう囁いている。 そうそう、時折、こんな風に騎士のように鋭いから、及び腰になってしまう男の人の気持ちは良く分かる。彼女の目は嘘を許さない。 「紗代さんっ!」 雪乃さんが私を呼ぶ声に我に返った。 「火を扱っているのに呆けていては危ないですよ」 そろそろ火を止めましょうと、鍋に指をさされて、慌てて火を止めた。 「粗熱が取れれば盛り付けてください。冷めないうちは駄目ですよ、煮崩れますからねっ……て、聞いていますか?」 「……着物っていいのかもしれない」 「は?」 「雪乃さん、私も明日からは着物を着たいです!貸してください」 「い、いいですけど。どうしたんですか?急に……」 「いえ、雪乃さんみたいにしゃんと背筋を伸ばしてみたいです」 雪乃さんは目をパチパチと瞬き、嬉しそうににっこりと笑った。 その破壊力たるや如何に。 クールな彼女が笑うと一転して少女のように幼く見えてしまった。 「着物はつい衿を正したくなりますものね。だから私も好きなんです」 雪乃さんは、饒舌に語り始めた。 「昔、私の好きな人が和装だったんです。それで私も憧れて、着物の似合う女でありたいとなるべく着るようにしています」 持っている大半の着物はその形見分けなのだと、雪乃さんは少し寂しそうに目を伏せた。 「えっ!?な、亡くなったんですか?」 「ええ。もう、随分前です。美人薄命って本当なんだなって、憐れに思いました」 雪乃さんは話しながらもささがきしたゴボウとニンジンを炒め始めた。 「そうそう、着付けは出来ますか?」 「は、はい。それは大丈夫です。学校でも習いましたから。でも、良いんですか?そんな大事な着物をお借りしても」 快く頷いて、そのように形にこだわる方では無かったと、雪乃さんは誇らしげに話す。 その人のことがよほど好きだったのだと彼女の話しぶりから伝わって来る。 「紗代さん、量が多いとこうして汁が出てくるので、炒め合わせたら一旦ザルに上げます」 鍋を抱えて雪乃さんはザルに移し替える。そして、また油を入れて炒め合わせて、砂糖、味醂、醤油を回し入れた。炒りゴマを振り掛ければきんぴらごぼうの完成だ。 「少し……薄味ですか?」 味見をさせてもらって、首を傾げた。 「作り立てではその程度の味ですが、皆さんが召し上がられる頃には馴染んでしっかりとした味になります。また時間を置いてから食べてみて、違いを確認してください」 へぇ……面白い。 「お料理はお好きみたいですね。紗代さんは筋がいいと思います」 「えっ!?」 何を根拠に言うのだろうと、私は眉根を寄せた。 「一緒に作っていて愉しいです。紗代さんはどうですか?」 「……まだ、良く分かりませんが、掃除よりは好きかもです」 雪乃さんは私の作った味噌汁を味見して、『美味しいです』と、頷いた。 「キャベツだけですけれど、冬キャベツの甘みと、シャキシャキした触感をしっかり活かせています。此処に刻み油揚げが入るとコクが出ると思いますよ。朝餉の味噌汁はさっぱり系、夕餉はしっかり系で使い分けてみるといいかもしれませんね」 言われてみれば、なるほどと唸る提案だ。 「紗代さんも思ったこと、気付いたことがあればどんどん遠慮なく言ってください。それに、チャレンジしてみてください。美味しさは千差万別、十人十色。作るのも食べるのも楽しいものですよ」 雪乃さんは新米のピヨピヨの私を信じて仕事を任せてくれる。 きっと、この人なら失敗したとしても必ずフォローしてくれるのだろう。私に擦り付けて、言い訳などきっとしない。   あの男のように――。 『嗚呼、君になんかに任せた俺が悪かったよ。俺は先方にちゃんと確認しろって言ったよな?』 確認もせずに遂行したのは上司の方だ。 けれど、かつての上司は私に失態の責任を(なす)り付けて私に頭を下げさせたのだ。 ポロポロと今更ながらに涙が出てくる。 「えっ!?えっ!?さ、紗代さん。わ、私、調子に乗って()き使い過ぎましたか!?す、すいません。何分(なにぶん)、人にものを教えたことが無くて……その、匙加減が分からなくて」 オロオロと雪乃さんは狼狽えるあまりに、まるで小さな子にするように私の頭を抱き寄せて、背を撫でた。 「そんなに辛かったのなら、言ってくださいよぉ」 ワタワタする彼女が可笑しくて、私は彼女の腕の中で吹き出してしまう。 「くふふっ、雪乃さん、可笑しすぎです。私を幾つの子だと思ってるんですか?私、やっぱり着物は遠慮させていただきます。一気に老け込みそうですもん」 私は私らしくあっていいのだと気付かされた。 意地悪く笑めば、雪乃さんの方こそ子供のように頬を膨らませた。 「紗代さん、嘘泣きは女のアクセサリーかもしれませんけど、私の前では心臓に悪いのでやめてください」 「はぁい。ちょっと泣き落としの練習をしてみたんです」 「そんなのは余所でやってくださいよ」 私は今日も雪乃さんを脱力させている。きっと、明日も似たようなものだろう。 けれど彼女は凛として私を受け止めてくれる。 そんな気がして、私は微笑んでいた。
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