疎外感

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 上り調子に慌ただしいまま仕事納めのその日を迎え、私はとにかく忙しい。 先ずは、朝から買い出しにごった返す商店街へリヤカーを走らせていた。 「えっと、買い忘れはこれで無いかしら……」 一つ一つを確認しながら、残った予算を確認する。 少しばかり手元に残った僅かな金額。 使い切って、活かせないだろうか? 「向井さんは甘党だったから……」 ささやかながら私なりの妙案を思いつく。 「よし、こっからは気合っ!」 私は家路を急ごうとリヤカーの柄を握り締めた時だった。 『ひったくりだよ!捕まえておくれ!』 喧騒を裂くような女の叫び声に私は肩を震わせた。 『どけよっ!』 表通りで物盗りの張本人らしき男が人混みをかき分け、押し退けて来るのが垣間見える。 (えっ!?こ、こっちに来るの!?)  咄嗟にリヤカーを反転させて、路地裏の細道を塞ぐや、私は頭を抱えて物陰に潜んだ。 私に出来ることはせいぜいこの程度。 『てめぇ、待ちやがれぇ!!!』 追う男に、追われる男。 リヤカーを前に右往左往して袋小路に嵌ったひったくりの男は、なけなしの抵抗とばかりに奪い取ったばかりの女物の鞄を投げ付けた。 近距離にもかかわらず、投げ付けられた男はそれを受け止めてみせる。 恐ろしいまでの反射運動。 「へっ、()ぇしてくれてありがとよっ!」 馬鹿にしたように、ニヤリと口角を上げた。 「くっ、くそっ!!!」 それならばと、ひったくりは男に向かって襲い掛かった――否、殴り掛かった拳を避けると見越して、その男の横を擦り抜け、逃げ切ろうとしたようだ。 「(!!!)」 息を呑んだのはひったくり犯と、一部始終を見ていた私。 どうしたことかひったくりの男は反転に舞って、地に叩き伏せられた。 よく視えなかったが、足払い一つでひったくり犯の男の足を掬い上げたようだ。 「へっ、逃がすわきゃねぇだろうが」 ひったくり犯は仰向けに伏したまま呆然と目を瞬いている。 きっと何が起きたのか本人は分かっていない。 そこへ駆けつけた警官によって、ひったくりの男は敢え無く取り押さえられた。 「よ、良かった……」 ほぅと、息を吐いて、私は引き立てられて行く男を見送っていた。 年の瀬の喧騒に紛れてこうした不逞の輩が現れるのは、往々にしてあることだ。 巻き込まれずに済んで良かったと胸を撫で下ろす。 「あんたがこの荷の持ち主かい?機転を利かせてくれたお陰で助かったよ」 女性の声に私は顔を上げた。    光沢のある毛皮を纏った洋装の女性は、四十は疾うに過ぎた齢だろうか。 お化粧の所為で今一つ年齢は不詳だが、艶やかな大人の女性だった。 「立てるかい?」と、言って、私に差し出してきた手には、かのクレオパトラも愛したという高貴なエメラルドが鎮座している。  赤いマニュキュアを刷いた指先に燦然と輝いているそれに、思わず見惚れてしまった。一方で、掴むことをためらうほどに、私の手は貧しく思えた。 「あ、いえ、大丈夫ですよ」 自ら立ち上がって着物の裾を払い、改めて女性に向き直った。 立ち上がってみて分かったが、女性は随分と上背のある人だった。 私よりも頭一つ分は裕にある。 「盗まれたものは大丈夫でしたか?」 ひったくり犯が、手にしていた鞄を荒っぽく投げ付けていたことを思い出した。 「嗚呼、お陰様でね」 ほら、この通り無事だと見せられた手掛けの鞄はこれまた艶々とした革製。 「お召し物が着崩れなくて良いのですけれど、それだと人混みでは狙われやすいのかもしれませんね。今日のような日はショルダーの方が無難かもしれません」 財布を帯に挟み込めない洋装はその当たりが不便に思う。ワンピースのベルトに挟み込むわけにもいかない。 「そうだね、連れと一緒だったから油断してたよ」 女性がチラリと咎めるように見遣ったのは、物盗りと格闘していた先ほどの男。 水平帽を目深に被り直し、今は小姓のように後ろ手で控えていた。 随分と小柄だが、彼は武道に心得でもあるのだろう。自分よりも大きな男を綺麗に投げ飛ばしていた。 「お叱りはごもっとも。お嬢さんが足止めしてくれて助かりやした」 言い訳一つせずに男は頭を下げる。 「は、はぁ……」 「肩掛けは嫌いなんだよねぇ。もっと小ぶりにして、ネックレスみたいに金鎖にすれば……案外いけるか?」 一方の女性の方は、自身の鞄を見つめて何やらぶつぶつと言い始めていた。 私の視線に気づいて、舌を出す。 「私は越三屋でブティックを経営しているんだよ」 越三屋というのは駅前の一等地にある大型百貨店。 デパートよりもその敷居は高く、そこに行けば、何でも全て一流の物が出揃っているとして名高い。何にせよ貧乏性の私には縁遠い場所だった。 「オートクチュールの洋品店『ViVi』っていうの、聞いたことないかい?」 ブランドと呼ばれるものに疎い私でもその名は耳にしている。 若い層からは憧れの、富裕層にとっては御用達のブランドの一つ。 (紗代さんならもっと喰い付いていそうだわ……) 「そこの洋服は全部、私が手掛けたものなんだ。でも取り扱ってるのは洋服だけじゃない。女を美しく彩るものなら、バッグから靴、私の目に適うものなら何でもござれの店なのさ」 デザインを考えるのはもう職業病なのだと、彼女は苦笑いする。 差し出された名刺はエレガントな紋章入りで、何やら良い香りが漂う。 (香水かしら……?) 名刺一つにこのこだわりは流石だと、感心してしまう。 『代表取締役 商品企画デザイン担当 鈴木(すずき)(りょう)』 店名のロゴと共に肩書と名前が記してある。 「『おりょう』と呼んでくれて構わないよ。店に来てくれたら、大サービスさせて貰うよ」 女性は人好きのする笑みを見せた。 八重歯が覗くと、妖艶から一転して存外に可愛らしい顔つきになった。 「ふふっ、お良さんは商い上手ですね」 この笑顔にほだされて、うっかり買い求めてしまいそうだ。 「女性でありながら起業されているなんて、なかなか出来ないことです」 羨望の眼差しに気を良くしたようで、彼女はにっこりと目を細めた。 「本当にね……そこは、私に投資してくれた御仁に大感謝だよ」 その言葉から、彼女が開業資金を銀行で融通できたわけではないことが分かる。今の時代、女が身一つで起業するのは並大抵のことではない。 銀行は簡単に首を縦には振らないだろう。 「仕事に役割ってもんはあってもね、経営に関しては男も女もないよ。頭一つに目が二つ、何が違うっていうんだい?」 そうですねと、私も笑みを見せて同意に頷いた。 「その荷を見るところ、あんたは食堂でもやっているみたいだね」 チラリとリヤカーに目を落とした彼女に、私は訊ねられるままに頷いた。 「申し遅れました。私は紺野雪乃と申します。『ひじり荘』という下宿を営んでいます」 「へぇ、あんたも経営者なのかい?」 経営に関する実働の全ては私が担っているが、所詮は雇われの身だ。 「運営を任されていましたが、私はお良さんと違って、単なる下働きに過ぎませんよ。それに、そこも春には退職することになっています」 「何だ、結婚かい?」 まさか自分が寿退社をすることになろうとは、私自身もまるで予想していなかった。 「はい。でも、一応は引き抜きでもあるんです。()くところは建具屋を営んでおりまして、今度は事務全般を任される予定なんです。オーダーメイドの洋品家具を中心に需要が伸びているそうで、滞りがちな事務処理を担って欲しいと雇っていただきました」 行きずりだと思えば、つい口が軽くなってしまう。 嘘ではないが、見ず知らずの人に得意げに見栄を張ってしまった。 「『沢渡建具店』の腕は確かです。ご要望の品があれば是非ともご贔屓に」 胸に手を添え、商いには商いで返して微笑んだ。 「物の無い時代は『安かろう、悪かろう』の既製品ばかり。そろそろ本物にこだわっていい時代が来ているね。でないと、面白くも何ともない」 お良さんの意見には賛成だ。 『女は世情に疎い』とは、誰が言った言葉か。鼻で嗤ってやりたい。 「ええ、荒波に呑まれず、上手く世間の需要に乗りたいですね」 お良さんと私は、まるで商談を成立させたかのように、どこか誇らしげに互いに握手を交わす。 『女のくせに』と、世間から揶揄されることの多い職業婦人であることに、少しばかり胸を張った。 これは、そんな思いがけない一時だったのだ。
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