疎外感

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 善次郎さんの手には見慣れた道具箱。 「それで、善次郎さんはどうされたんです?」 お仕事帰りに立ち寄ったのだろうか?と、首を傾げた。 「聞いてませんでしたか?先日、紗代さんが依頼してきたんですよ」 何も聞いていなかったが、どこか修繕の必要な箇所でもあったのだろうか? 「今、紗代さんは玄関口を飾る生け花を挿しているところだと思います」 『ひじり荘』から皆が出払ってしまうが、新年くらいは華やかに飾って福の神々をお迎えしようと、紗代さんは張り切ってくれていた。 「嗚呼、いいんです。用があるのはここの上り口の引き戸ですからね」 それは、今、奈津と宗太が座って食べているところの階の上段になる。 普段は全開に引き切っているが、私が就寝する時だけは格子引き戸も閉じるようにしていた。 縁側に続く板の間を挟んで、襖で仕切られた奥が私に与えられた私室だ。 「どこも不具合なんて……?」 「鍵を取り付けてくれないかと頼まれたんですよ。直ぐそこが雪乃さんの部屋であるのに不用心だとね」 確かに引き戸に鍵はない。 不用心と言えばそうかもしれないが、今更の話だ。 紗代さんは私を気遣ってのことかもしれないが、何も年末の忙しい最中でなくともと、私は眉根を寄せてしまった。 「あの、お忙しいのでは?特に急ぎの仕事ではありませんよ」 なぜか今度は、善次郎さんの方が眉根を寄せた顔付になる。 「祝賀会は今日の夜でしょう?」 「そ、そうですが……?」 それがどう関係するのか、今一つ分からない。 「酒の入る席です。聞けば、預かり知らない者らも招かれているとか」 「え、ええ……それは、そうですけれど」 私に面識はないが、向井さんの友人や皆さんの勤め先の方々だ。 信用ならないような人ではないだろう。 「どんな輩にせよ気を付けるに越したことはありません」 口を真一文字にして、作業に取り掛かろうとする彼には随分と疲弊の色が見て取れた。 建具屋さんにとって、年末は稼ぎ時の筈。きっと、大晦日までは気を抜けないだろう。 「善次郎さん、今日のところは入り用ではありません。同じ時間を割いていただけるなら、一緒にお茶でもしませんか?」 彼の手を止めて私は提案するも、彼は更に顔を顰めた。 「雪乃さん、俺が心配なんですよ。鍵を付けさせてください」 (たしな)めるそれだったが、私は頑なに首を横に振った。 途端、彼は苛立ちで険しい顔つきに変わってしまった。 「だ、大丈夫なんです!私、今宵は善次郎さんのところに行きますからっ!」 私は慌てて早口で言い切った。 善次郎さんは驚いた様子で目を瞬いた。 「あ、あの、私は今日で仕事納めですので、お料理を出し終えれば会を抜け出して、善次郎さんに会いに行こうと思っていたんです」 紗代さんも、そう遅くならないうちにご隠居さんと一緒に離れの方に引き上げると言っていた。 「それでも夜分になると思うので、えっと、その……善次郎さんがご迷惑でなければ、なんですけれど」 奈津と宗太が寝入る九時頃になる旨は、あらかじめセキさんには伝えてあった。彼女と入れ替わりで家の番をするつもりだったのだ。 あまりにマジマジと見つめてくるものだから、快く迎えて貰えるという自信が急速に萎んでいく。 やっぱり、はた迷惑な話だったろうか? 目を泳がせながらも、私はチラリと彼を窺うように見上げた。 (ゔっ……) 善次郎さんは額を抑えて項垂れてしまっていた。 きっと、考え無しな思い付きだったに違いない。 「ご、ごめんなさい。勝手なことを言いました。忙しいのにご迷惑でしたね」 (は、恥ずかしい……ちょっと、思いあがっていた) 穴があったら入りたいと、半ば逃げるように彼に背を向けた途端に、彼に手を取られて引きとめられてしまった。 「迷惑な筈が無いでしょう?嬉しくてどうにも……堪らないんですよ」 彼は私から顔を逸らしたまま、意外なほどに弱弱しい声で零した。 彼の耳の先が火照っていることに気づく。 「善次郎さん……?」 「いえ、工房は今日がピークなんです。帰りは遅いですよ?」 それは了承済みだと私は彼の掴んでいる手に手を添え、頷いた。 「だからこそ少し、休憩して行ってください」 少しでも心を軽くして貰いたかった。 「分かりました。それ、俺も一つ頂いてもいいですか?」 彼はフライケーキを指さした。 「あ、はい。でも、甘いですよ」 善次郎さんは南瓜さえも甘ったるいと思っている口だ。 「疲れた時くらい、甘いものが無性に食べたくなるもんですよ」 それもそうですねと、相槌を打つつもりが声にはならない。 指先に熱を感じて、私は反射的に手を震わせてしまう。 (な、な、舐めた!?) 「くふふっ、本当だ。甘かったです」 まるで子供のように悪戯に目を煌めかせる彼に、私はあうあうと口元を戦慄かせて、言葉どころか息の仕方も忘れていた。
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