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「ごめんください」
そっと窺うように家の中に向かって声を掛けた。
既に寝静まったような、物音ひとつしない家屋に私の声が細く通った。
奥の襖がそっと開いて、セキさんが顔を出す。
「おや、まぁ、めかし込んだものだ。見違えたよ、あんた」
おそらく針仕事でもしていたのだろう。セキさんは、老眼鏡の奥の目を瞠って、それから着物に目を細めた。
「へぇ、良い着物じゃあないか」
総絞りの桜色の訪問着。波の花々をあしらったそれは間違いなく上物。
恐れ多くて、これまで一度も袖を通したことは無かった。
「虎の威を借りてきました」
私の一番で臨みたかった。
「ははっ、善ちゃんを落とし込むには十分さね」
セキさんは、バン、バンと私の背を叩いて、気合を入れてくれた。
「……セキさん」
今宵、夜分に伺う旨を伝えた時、セキさんは何ら不快に思うことのない顔つきで頷いてくれた。
『好きにしなよ。もう、とっくにこの家はあんたを迎えている。そうだろう?』
そんなはなむけまで添えて、セキさんは私を認めてくれたのだ。
「セキさん、私……ちゃんとしてますかね?」
もう、誰にも疎まれたくないと、これまで隠れるように忍んできた。
灯りの当たらないそこは、少なくとも安全だった。
他人様の灯りを眺めているだけで、私は小さな安心感に満足していられた。
強がりでもなんでもなく、それを妬ましく思わないほど、私は人に深入りすることがただただ怖かったのだ。
なのに、急にそこから引き出されてしまった。
更には自ら手を伸ばそうとしている。
「何言ってるのさ?あんたは真っ当に綺麗だよ。誰も文句は言わないさ」
軽やかにセキさんは言い切ってくれた。
「チビちゃんたちはもう寝ちまったからね。私はそろそろ帰らせて貰うよ」
セキさんはお向かいの家で、息子さん夫婦と共にお住まいだ。
日がな一日家に居れば、お嫁さんに煙たがられると言って、善次郎さんの家の世話をしながら、お針子の仕事を請け負っている。
私には羨ましい、手本となるような生き方だと思っていた。
私もセキさんのように、余所様の暮らしをささやかに支えながら、陰ながら暮らしていければそれが幸せだと指針にしていたのだ。
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