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カラガラと玄関口の引き戸の音に、はっとする。
(いけない、いけない……今、うっかり眠ってた?)
お出迎えしようと、私が襖を開けようとした手と彼が引き開けたことが重なり、咄嗟に弾くように手を退いた。
善次郎さんは、息を切らせたように吐息を弾ませ、冷え込んだ空気を纏っていた。
「お、お帰――っ」
言葉なく抱き竦められて、またもや驚きに息を呑んでしまった。
薄々気付いて随分になるが、善次郎さんはせっかちだと思う。
唐突な行動が多くて、私をたじろがせてばかりいる。
「よ、良かった……いた」
(『いた』って……。そりゃ、居ますよ)
「私が嘘つきだとでも?待っていると言いましたもの」
彼の懐で私は口を尖らせた。
「はい、そうなんですが……そこは雪乃さんなので」
「私だとどうなんですか?」
見上げて少しばかり遺憾を訴えてみた。
勿論、冗談である。
「……今日は何だかいつもと違わないですか?」
隔たりの無いこの距離で、マジマジと見つめられれば流石に照れる。
「さ、紗代さんに教わって、流行りの結髪をしてみたんです。それにお化粧も少し……その、だって、今宵は祝賀会でしたし、それに、その……」
(デートのつもりだったもので……)
とても、顔を上げていられずに伏せてしまった。
「――な、何でもないです」
繁忙期でお疲れだというのに、独り浮かれたことをしている気がして、何だか居たたまれなくなってしまった。
「へぇ、祝賀会の為ですか?」
彼は私の頤を上げ、顔を上げさせる。
彼の冷えた体に反して、触れられた手は存外に温かかった。
あの手編みを使ってくれているのかもしれないと、顔を綻ばせかけたのだが……。
「あ、あの――」
どうしたことか善次郎さんは不機嫌そうに険しい顔をしている。
「やっぱり……危なっかしいです」
私の唇を親指で確かめるように触れた。
あっ……と、咎めるような声が漏れ出たのは、拭われたからではない。
指の腹に移った紅を彼が舐め取ったからだ。
「含んだところでどうということも無い物でしょう?」
尋ねられても返答に困る。
おそらくとしか言えない。
「――折角、綺麗に引いたのに」
ちゃんと見てくれたのだろうか?
そんな不平が顔に出てしまった為か、彼は幾分、困ったように目を眇め――。
「どうせ落ちる」そんな言葉と共に、不意に差し掛かった影。
互いの吐息が合わさる距離で、私は目を閉じてしまった。
重ねられた――否、喰らわれたが正しいのかもしれない。
あの時のキスとはまるで違う。
「……んっ、ぜ、善……」
多少なりと覚悟はしていた。
それに期待も。
それでも思い描いていたものとまるで違うその口付けは、いつになく余裕のないもので、まるで容赦がなかった。
息吐くことさえ許すまいとして、何度も角度を変えて塞がれる。
想定を軽く凌駕して、まるで呑み込まれてしまいそうだった。
「待っ……はぅ……んぅっ」
堪らず、私は彼の袖を握り込んだ。
(わ、私……ど、どうなるの……?も、もう、これ以上は……)
足が立たない。
けれど、私の頼りにならない腰を支える彼の腕が、まだまだ手を緩める気は無いと、更に私を引き抱いた。
彼の手が私の帯を掴む。
「……ま、待って!」
(だって、まだ何も見て貰ってないのにっ……!)
知らず潤でいた視界に、私自身が先ず驚いてしまった。
そんな私の目に怯えを見て取ったのだろう。
我に返ったように目を瞠って、善次郎さんは苦く顔を歪めた。
「すいません、馬鹿みたいに妬いてしまいました」
悔やむように額を抑えて、前髪を鷲掴んだ。
「ちょっと……頭を冷やしてきます」
そんな言葉と共に、彼は部屋を出て行ってしまった。
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