疎外感

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トン、トン、トン 手馴れた音を手元で軽やかに鳴らしながら、私はいつもと違う朝を迎えていることに、不可思議さを覚えて、少しばかり可笑しくなる。 これまでの生き方を不幸せだと嘆いたことなど微塵も無いのだけれど、今が幸せの中にいることは目に見えて頷けた。 朝靄に差し込む光のように、この場所は眩しい。 そんなことを思いながら、私は刻んだネギを味噌汁の鍋に浮かべて、火を切った。 霜の降りた寒い朝だが、今日は良い天気になるのだろう。 「雪乃さんは朝が早いですね」 豪快に欠伸をしながら、善次郎さんが土間に降りてきた。 「おはようございます。善次郎さんも早いですよ」 ちゃんと休めたのだろうかと心配になってしまう。 「――無理をさせてしまいましたか?」 なのに、善次郎さんの方が私を案じた言葉を吐くのだから、困ってしまう。 「いえ、早起きはいつものことですから、自然と目が覚めてしまうんです」 夜明けと共に食堂の片づけに戻ってみたけれど、京橋さんらで綺麗に片づけられていた。    ほとんどすることが無かったのだと、私は嬉しかったことを明かした。 「いえ、そういうことでは……」 なぜか善次郎さんは困ったような顔をする。 「それで……あの、勝手に、朝餉をこしらえてしまいました」 良かったですよね?と、確認するかのように顔を覗き込む。 これでは完全に押しかけ女房の体裁である。 (いえ、もう、婚約している身ではあるのだけれど……) 善次郎さんは少し不満を顕わに小さく嘆息した。 「雪乃さん……言ったでしょう?もう、あなたは俺の一部なんですよ」 『俺のものにする』 確かにそう彼は私に宣告した。 そして――、宣告通りに事はなされた。 (……と、思います) 羞恥が勝って、もう彼の顔をまともに見ることが出来ない。 顔を上げられないばかりか、気恥ずかしさのあまりに私はキュッと固く目を閉じた。 「もう、帰す気はありませんよ。此処があなたの家だと自覚してくださいね」 三が日の内に、私の荷物を少しずつこちらに移して、今後は沢渡家から『ひじり荘』に出勤する形を取るようにと、彼は私に告げた。 「は、はい」 「そんなに自覚が足りないようなら、もっと無理を強いるかもしれません」 (?) 私の髪から、束ねていた結び紐をスルッと、解いてしまう。 解けた髪がはらりと私の頬に掛かかった。 「今日は髪を下ろしていた方がいいと思いますよ」 目元を和らげ、綻ばせた笑みはどことなく意地悪い。 「ぜ、善次郎さん……?」 スッと、私の首筋に指先を這わせた箇所は、耳後ろから頸動脈を伝った。 擽ったさに身を強ばらせる。 『――痕。まるで消えてないですから』 耳元で囁かれた言葉が引き金だった。 ドンッ 思わず、あろうことか彼を突き飛ばしてしまった。 意識的に思い出さないようにしていたというのに、ばっちりと思い出した。 思い出してしまった。 「じ、じ、自覚していますから!」 私は茹蛸のようになっていたに違いない。 平常心を保つことに、私がどれほど苦労しているかを考えてほしい。 「くくくっ、はい。何よりです」 口づけの痕を手で覆い隠しながら、私は吹き零す彼を睨んで黙らせる。 「皆さんにぜんざいを振舞いたいのですけれど、それくらいの時間は作れそうですか?」 少しでも何か力添えがしたかった。 それを差し出がましいことかもしれないと、遠慮することはやめた。 押しかけ女房で良い。 押しかけ女房万歳だと、私は居直った。 「はい、ありがたいです。あいつらも喜ぶと思います」 快く笑う善次郎さんは、私も沢渡家の一員として胸を張っていいのだと自信を与えてくれていた。
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