距離感

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 廊下の壁に張り付いている柱時計が鐘を四つ打つ。  それを皮切りに、そろそろ夕餉の仕込みを始めなければと、私は顔を上げていた。 「ふぅ、こんなもんでしょうよ」  米糠で磨き上げていた廊下の黒光り具合に満足しながら、すっかり固まってしまった腰を打つ。 丁度その時、カラカラと玄関扉を遠慮がちに引く音がした。 顔を覗かせた座敷童たちと目が合い、私は顔を綻ばせた。 「いらっしゃい。玄関から入って来るなんて珍しいわねぇ」 うちの座敷童――奈津と、宗太だ。 常は勝手口か、縁側の方から彼らは上がり込んでくる。 その彼らの背後に大人の影があることに気づいた。 「あら、今日はお父さんも一緒なの?」 男の手が引き戸の端を手に掛け、大きく開ききろうとしたが、敢え無く途中で戸は引っ掛かる。 こちら側に顔を覗かせた善次郎さんは、建具に目を眇めた。 「少し建付けが悪くなっていますか?」 「ええ、そこはよく砂利を噛むせいだと思います。開けるのにちょっと、コツがいるんです」 いつも私は半ば辺りから浮かせ気味で引いていた。 「後で、見ておきますよ」 「すいません、助かります。必要な請求はしてくださいね」 善次郎さんは首を横に振った。 「多分、大丈夫です。少し手入れする程度ですから」 それよりもと、彼は奈津に目を向ける。 どうやら子供たちの方が私に用がある様子にあった。 不安に顔を歪めて奈津は私を見上げていた。 「ユキちゃん、ひじり荘からいなくなっちゃうの?」 「え?」 「やだっ!!!」 宗太は行かすまいとして、私の足にしがみついて来た。 「ちょ、ちょっと二人ともどうしたの?」 訳が分からず、善次郎さんに助け舟を求めた。 「つい先ほど、お縁さんがうちの若いもんに話をしに来たんですよ」  善次郎さんの工房には二人ばかりのお弟子さんがいる。 彼らもうちの食堂の常連客であるから、私とも顔見知りではあった。 「はぁ……」 それだけではまだ話の全貌が視えない。 「その……来週に、見合いをされるんですよね?」 「え?誰がですか?」 私の鼻先に向かって指を差され、思わず後ろを振り返る。 誰もいる筈のない廊下が奥まで伸びているだけだ。 「雪乃さんですよ」 益々意味が分からない。 「私がですか?」 自分の鼻を指して確認するも、彼は確と頷いて見せた。 「しませんよ。何かの間違いでは?」 寝耳に水の話だ。 「お縁さんがうちの――伊藤にそう伝えていました。紺野さんと見合いの席を設けるから、準備をしておけと」 私は目を丸くする。 「そ、それ、本当ですか!?」 思い当たる『仕上げ』の言葉が頭を過った。 「伊藤の奴は……、喜んでましたよ。腕はまだまだですが、心根の良い男です。あいつのこと、よろしく頼みます」 いや、いや、いや、よろしくされても困る。 「やっ!!!」 宗太が全力で私を支持してくれた。 奈津は何も言わないが、いじらしくも私の袂を掴んで離さない。 二人の縋るような眼差しに、私は大丈夫だと確と頷いて見せた。 「すいません、私の預かり知らないところで何か手違いが起こっているようですね。私はお見合いも結婚もしませんよ」 はっきりと意思を表明すれば、善次郎さんが眉根を寄せた。 少しきつい物言いだったのかもしれないと、慌てて弁明する。 「伊藤さんがどうということではないです。私はもう、ずっと独り身でいいと思っているんですよ」 その為にも社会的に自立した女性であらねばならないと、日々を精進しているのだ。 「お縁さんには折角のご好意を無下にして申し訳ないと、明日にでも謝りに伺います」 「どうしてですか?」 善次郎さんの少し冷えた声音に、少しばかり驚いた。 「?」 「まだ若い身空で、どうしてですか?」 「……怖い……です」 「え?」 他人(ひと)に深入りするのは怖いことだ。 私は宗太と奈津の頭を撫でることで、曖昧に目を逸らしてこの話を閉じた。
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