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私がタキさんに断りを入れに行ったその夜のことだ。
食堂の片づけを終えた頃合いを見計らって、伊藤さんとタキさん、それに善次郎さんが私を訪ねてきた。
殊更、タキさんの目は不満を顕わにしている。
伊藤さんを袖にした私を責め立てているのだ。
こちらはそれに対抗するようにご隠居さんが何故か参戦している。
否、この目はどうせ面白がっているだけだろう。
「二人は大丈夫ですか?」
善次郎さんにそっと声を掛ける。
不可抗力だが、巻き込んだ感が否めなくて、非常に心苦しい。
「もう寝ていますし、湯葉が居てくれてますから」
湯葉さん――お弟子さんの一人だ。
私は頷きで返して、皆さんにお茶を差し出していく。
「で、うちの子が欲しいんだって?」
ご隠居さんが目を弓なりにして腕を組む。
いえ、うちの子ではありません。
話が抉れるので此処は傍観でお願いしますと、袖を引いて窘めた。
「えっと、雪乃さん」
伊藤さんが声を張って、身を乗り出した。
「は、はい」
「お、俺は、雪乃さんと所帯を持ちたいです。俺なんかでは心許ないかもしれませんが、これからもっと、もっと頑張って、親方を唸らせる腕前になれるよう精進します。だ、だから、俺の嫁になってくれませんか!?」
伊藤さんはこれ以上にないほど男らしく、はっきりと私を求めてくれた。
え?これ、お見合いですよね。完全にそうですよね?
謀られた心地でタキさんを見遣れば、彼女は目を据わらせた。
『何の文句があるのか?』という無言の圧が凄まじい。
「これは良縁だよ。伊藤さんは所帯持っても、あんたにここでの仕事は続けて構わないって言ってくれてるんだ。それに、伊藤さんのご実家も近いから何か事には助けても貰える。伊藤さんをお育てされただけあって、しっかりした親御さんだよ。お父様は学校の先生をされておいででね――」
ぺらぺらと、タキさんの猛攻は続く。
「ま、待ってください。一旦、落ち着きましょう」
タキさんの口を止めて、雪崩れ込む情報量を断ち切った。
「身の丈に余るありがたい申し出だということは重々承知しています。ありがとうございます」
私は伊藤さん、それからタキさんと、親方として親代わりでここに居るのだろう善次郎さんに頭を下げた。
「なら、纏めていいんだろう?」
タキさんが嬉し気に目を細めた。
その誇らしげな目に、引き合い仲人を請け負う彼女の気持ちが少しだけ分かってしまった。
(タキさん……)
タキさんの私を見る目は、まるで母親のそれだった。
タキさんは戦争で娘さんを亡くしているという。
「あんた、孤児だっていうから引け目を感じているのかもしれないけどさ、幸せにおなりよ。伊藤さんのことは嫌いじゃないだろう?」
嫌いではない。
炊事場に向けられる『いただきます』と『ごちそうさま』は欠かされたことは無い。
礼儀正しく、気持ちの良い人だと知っている。
それに、奈津も宗太も彼の前では、小さな悪戯ができるほどに彼を慕っていた。心優しい人だと私は安心していた。
タキさんは本当に私のためを想って、良縁を運んできてくれたのだろう。
私は泣いてしまいそうになる自身を叱咤して、下唇を噛んだ。
ここで泣くのはきっと卑怯者だ。
「すみません。私……私は、伊藤さんに見合うことは出来ません」
深く、そして長く、私は頭を下げた。
せめて誠意と謝意だけでも伝わって欲しいと、心から願っていた。
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