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美しくないと言う
怒りという感情には、もっと似つかわしい状態があるだろう先生のそれは、ましてや怒りというよりも、どこか言うなれば、嬉しそうだったし、辛そうだった。
webライター、これだ。
私の職業だ。その前は飲食の接客業をしていたが、訳の分からない客や理不尽なクレーム対応、おまけに社員同士の陰湿ないじめや、ミスの多い学生のバイトに対してある社員が所謂パワハラを続け学生は辞めてしまい、どうやらそれが原因か鬱病になってしまったようで事情を聞いたであろう親が店長に烈火の如く怒鳴り込みに来る……その社員はどうやら心当たりがあり言い逃れが出来ないと思ったのか無断欠勤の末蒸発、当時店長は明らかに体調を崩していたがその穴を埋める為働いていた。そうしたら急性胃腸炎で救急車で運ばれて行った。
店長を乗せた救急車の背中を見送る私は、さながらボロ雑巾一歩手前、使い古した台拭きといったところだっただろう。
頭の上に薄い吹き出しが浮かんでいた。貯金もあるし、この世に仕事はこれだけじゃない。
拝啓店長、胃に穴は開けないでください。敬具
そうして私はその怒涛の時期に仕事を辞めた。巻き込まれたくなかったのだ。人に対する態度は淡白ではない自覚はある、寧ろ愛想がいいほうだ。しかしこういうところはドライな方が、いやドライでないと、生きてはいかれない。
元々文章を書くのが好きだった私は、趣味でブログをしていた。勿論本名ではない。ハンドルネームというのか、そういうのは適当に『しゃけの最強焼き』とかいうほんのりユーモアがありそうでまあまあダサいなと思うもので敢えて登録していた。そのダサいユーモアが逆に良い、なんて一部の流行か傾向に私も乗っている気もする。
当時の仕事の愚痴やら、好きなバンドの曲の話、漫画やアニメ、映画の考察。自分でも結構内容が濃いブログの運営だったと思う。読者登録者数も一般人のブログにしては多めという程いたし、広告収入もつけられるようになっていた。文字通り小銭くらいの収入だったけれども。面白いかどうかの話は今はしていない、厨二病の中学生の話を聞くように生暖かく聞いてくれれば問題ない。
そしてここからは、webライターになった経緯を説明する。
知り合いの、というより同級生で飲み友達のインディーズバンドのボーカルにインタビューした記事を書いてブログにあげたらインターネットで伸びた。暇だったからちょっと毛色の違うことをしてみようと行動してみたのだ。ボーカルの彼がシェアして、ファンがシェアして、そしてまた誰か有名な人がシェアしたのかもしれない。よく分かっていないが、ブログも大盛況してしまって驚いた。次の朝起きたら管理ページから見れる閲覧数の桁がバグかと思うようなことになっていたのだ。その後所謂webライターとして契約しないかと、とある企業からメールが来て私は飛び付いた。今に至る。少々割愛が多過ぎる為にそんなとんとん拍子に行きやがってと思われても結構。私はドライだからだ。
「漫画家への取材記事……」
驚いた。そして不安と期待と逃避するか挑むかの葛藤。
元々、バンドボーカルへのインタビューの記事で自宅で出来る仕事を手に入れたようなもので、このような仕事を依頼されても可笑しなことは何も無い。けれども久々の直接話す対人で、いや、嘘をついた。私はこの漫画家の漫画の大ファンなのだ。
だから驚いた。漫画家の名前は『穂波津首』。きっとペンネームであろう事は分かるが、当初漫画の作者の名前の読み方が分からずネットで漢字を打って検索して『ほなみづ かしら』と読むことが判明したことを思い出す。そして、共に年齢と性別不詳と出てきたことも。
穂波津先生は、私ひとりのこころでは、到底表しきれない醜さが綺麗に感じてしまうくらいの美しい漫画を描くのだ。
読んだ人間がきっとそれぞれどこかのシーンで胸打たれただろう、それも全員が違う場所で深く、胸打たれるよりも、突き刺さるという表現が正しいかもしれない。私といういちファンだけの主観かもしれないが、ネットでも話題になったことがある。その時それぞれ、印象深いシーンや台詞の話をしていたが、バラバラだったのだ。そしてそれに共感する人間が属性かなにかで分かれているような、それでもその漫画全体に、ファンは魅了されていた。話題作の題名は『どうか生きないで』。こんな題名だが、最後は希望を感じる、切なさと冬の冷たい風のような爽やかさを感じる作品だ。
今回、家に直接訪問してインタビューをしていいらしい。会えるのか、しかもご本人の家に?恐ろしい、嬉しい。怖過ぎる。サインを貰いたい。否仕事なのだから、ファンが知りたい事、そして穂波津先生の魅力が伝わるような記事を書けるよう、ファンだからと言って浮き足立ってはいられない。
と、思いながら前日布団の中で決意したが、もうずっと、体が浮いている感じがする。寝なければ。そして早めに起きて、先生の漫画を読んで、まとめた取材内容を目が覚えるほど頭に叩き込み、冷静に。寝なければ、寝なければ。
穂波津先生の御自宅は、マンションの一室だった。身なりを整え、深呼吸してからチャイムを押すと意外とすぐに鍵を開ける音がして、扉が開いた。
真っ白だった。
部屋が、ではなく、出迎えてくれた人物が、頭の後ろでひとつに束ねられた長い髪の毛から肌から服から真っ白だった。ズボンだけは黒で、思わず私は見惚れて挨拶の間合いが変なことになってしまった。
「あ、先程駅でお電話させて頂いた……取材に来た中原です」
「中原さん、こんにちは。穂波津です、入ってどうぞ。あなたが来るの、わくわくしていました」
「え?」
私の失礼な態度なんて全く気にしていない事にほっとしたのも束の間、わくわく?と玄関で靴を揃えてスリッパを履いている最中にまた、穂波津先生の顔を見詰めてしまった。
「しゃけの最強焼きさんのブログ面白くて、ファンなんですよ。わたし」
「え!?」
「だから取材を受けたんです。会えるんだ!って、なんて下心で、すみません」
穂波津先生はリビングに続く扉を開き、本当に嬉しそうなかわいらしい笑顔を向けて、私に座ってくださいとでも言うように椅子を引いてくれた。混乱し過ぎて会釈をして普通に座ってしまった。
「ぼく紅茶が好きなので、今淹れたいです。中原さんは紅茶飲みますか?」
「あ、えっと、はい。有難う御座います」
穂波津先生、やっぱり変わったひとなんだな。嫌な感じはしないが、雰囲気や話し方が独特で、というか出会っても間近で見ても顔にあんなに見惚れても、細くて白くて声がハスキーで、ネットの情報と然程変わらない事しか得られていない。年齢と性別が分からない。そういえば、一人称が『私』や『僕』だったりしたな。でも男性でもそれはごく普通にある事で、女性でも稀にある。やはり、わからない。これはもしかして、訊かない方がいいことなのだろうか?
「まさか、私のことをご存知だったなんて、光栄過ぎて、その、ああ、なんと言ったらいいのか……」
「うん。わたしのこと知ってるのも知ってました。だってブログに書いてくれてましたよね、すごく嬉しかった、こんなにも、自分の漫画を読み込んで考えて文章に起こしてくれる人がいるのかって」
「あ、ああー……有難う御座います、いや、失礼な事書いていたりしたら、すみません」
「いいえ、見ず知らずの人があそこまで称賛してくれる漫画の感想や考察はうれしいかぎりですよ。……あ、紅茶おいしいよ」
明らかに舌を火傷するであろう熱々の紅茶を、先生は普通に飲んでいた。私は少し冷ましてから飲もうと思う。紅茶に特に詳しくないので銘柄なんて全く分からないが、いい香りだなと、その空間と先生から口を開いてくれるおかげで、少しリラックス出来た。
「穂波津先生、取材を始めても宜しいですか?」
「はい、わかりました」
子どもみたいにぴしっと太ももに手を置いて、姿勢を正して先生はにっこりと頷いた。案外、かわいらしい人なのかも。
それから、漫画を描き始めた経緯や代表作『どうか生きないで』執筆中のエピソード、来月発売の短編集についてのコメントなど、ゆったりと穏やかに豊かな時間が流れる中、穂波津先生の心地良い声色の返答を聴いて、頭の中で整理しながらその場で思い付いた質問を補足として加えていった。特に険悪な雰囲気になる事などなく、やっぱりあんなにすごいものを描いた人の話や言葉は違うな、なんて思いながら滞りなく取材は進んだ。
「穂波津先生は、どうして漫画を描いているんですか?」
「うーん、これを聞いたら、あなたもみんなも、がっかりして失望して、私を嫌いになって、漫画も読まれなくなってしまうと思います」
「……野心が過激であるとか、そういう事ですか?」
「記事に書かないで。と言った事を書かないと約束して貰えるなら、話しますよ。聞いてもらえるのは、うれしいです。ただ嘘をつけないから」
「……えっと、……わかりました。その点は当然お約束しますし、書きませんが、先生の、その、聞かれたくない話を私にしても良いんですか?」
「うん、はい、ええ、どうぞ、聞いて」
穂波津先生は笑っていた。美しいその顔に、無駄な肉は一切無い。身長も高めでスラッとしている。痩せ過ぎと言ってもいい。だから年齢も性別も分からない。そして白い。口も目も穏やかに笑みを浮かべている。私を見ている。どうしてか急に、得体の知れない暗くて巨大な何かに見下ろされているような気分になって恐ろしくなってきた。
「どうして、漫画を描いているのですか?」
先生は少し目を細めて紅茶を口にしてから、言葉を発した。
「わたしの描いた作品で、誰かが死んでくれたら、それはすごく悲しくて辛くて落ち込んで、そしたらきっと、あたしは幸せになれるから」
声が出なかった。穂波津先生は続ける。
「誰かを傷付けたくて描いてるんです。ぼくは八つ当たりで、誰もを殺してやりたい。でもそんなのは出来ないよね。自分が出来る、漫画を描くことで人を傷付けられたら、殺せたら、きっと嬉しくって、死んでもいいくらい幸せなんだよ」
建前と本音ではないことは分かる。さっきのインタビューが建前でこれが本音で、なんてことではない。だけれど私には真っ直ぐに衝撃で、包丁で腹を刺されてぐにぐに楽しげに抉られているような胸の痛みと不気味さが耐えきれなくて、口を開いてしまった。
「……先生の作品で、生きる活力を得た人や、希望や勇気をもらった人、死のうとしていた人が先生の作品を読んで救われたという話もありますが、もしかして、それは先生にとっては本当は嫌な事なんでしょうか」
「ううん。真逆。本当に嬉しい。わたしの作品で心が動いて、何かの活力になれた。誰かの役に立てたのは、心の支えになれたのは、最高の気分だ。だから絵を描くし台詞も考えるよ」
「……殺したいというのは比喩ですか?」
「そのままの意味だけど、そうなったらラッキーって感じだ。本当に落ち込むだろうし、自分の作品で誰かをそこまで追い詰めてしまった事が気持ち良過ぎて、罪悪感でもうおれは漫画を描けなくなるかもしれないね。自責の念で死にたくなってしまうかも」
「…………」
すらすら話す先生の言葉がぐちゃぐちゃで、すぐに理解が出来ない。適当を言って、私の反応を面白がっているのか?いやこの人はきっと、このぐちゃぐちゃな素直な言葉を抱えているから描ける人なのだろう。そんなふうに、曖昧な、月並みな解釈でしか飲み込めない。飲み込まないと、吐きそうだ。
「知ってるんだよ。こんな気持ちで漫画を描いてる人間の作品なんて読みたくないって言う人間ばかりだということが。気持ちはようく分かる。人を傷付けるために使うなんて。ってさ。そうだろ?でも、違うんだ。直接誰かをいじめたいわけじゃないんだ。それをうまく言葉に出来たら、ちがうだろうね」
「ちがう?」
「漫画を描いていないってことだよ」
「穂波津先生は、やっぱりすごいですね」
「誰でもすごい。中原さんも、同じ」
「私とあなたは、違います……」
「そうだね」
「穂波津先生は、過去になにか、そんなふうに描くようになったきっかけがあったのでしょうか」
最後にこれだけは。と押し潰されないよう、平静を装って、声に芯を通して、質問をした。
「おれの不幸な話は長くてつまらないからやめておいた方がいい。ひとつ言えるのは、ずっと怒ってる。四六時中なにも鳴り止まない。醜くて気持ちの悪い程煮詰まった怒りが、漫画に表れてるんだ」
煮詰まった醜い怒りが表れた漫画が、あんなに美しいのか。
私はこの人の燃え盛る炎に触れて火傷しそうな、そんな感じだった。揺れても消えなくて、ずっと美しい。もっと近付きたい。でも近付けない。これ以上近付けば私は一瞬で燃やされて、死んでしまうだろう。
「『美しい』とよく言われていたよね。『どうか生きないで』の感想やファンレターに沢山書いてあった。あんなもの、美しくない」
いいや、美しい。美しいそれを美しくないと、穂波津先生は先ほどよりも低い声色で断言した。これがこの人の向上心か、謙遜か。私には到底理解出来ないだろう。
「でも、美しいと言われて、嬉しかった。美しいものは好きですね。中原さんもそうでしょう?」
「……はい、美しいものが好きです」
「ブログ楽しみにしてるんですからね、また日常の映画ブログとか更新しないんですか?」
「えっ」
またにこやかな先生に戻ったような、そんなふうに感じた。この人は相当変わった人で、きっと狂信的なファンもいれば熱烈なアンチも居るような人だろう。オンオフとか使い分けとか演じてるとかそんなことではないのだろうが、底の見えない谷底を崖から覗くような恐ろしさと好奇心を刺激される人だ。
正直本当に自分の話をされるのは恐れ多過ぎてうまくは返せなかったと思う。でもまさか読まれているなんて思わなかった。うれしい。これはそれだけのひとつの感情だ。インターネットは広い。
帰宅する時、先生に
「またお茶とかしてお話したいんですけど、貰った名刺のアドレスに連絡していいんですか?あなたと話すの、楽しいんですよ。頭が良い、語彙が豊富なあなたの話を今度は聞かせてください」
と半ばお膳立てのような言葉に調子に乗って、つい了承してしまった。この人とまた出会ったら、次こそ飲み込まれてしまうのではないかと少し不安になった。帰り道の乾燥した風と誰かの咳で、今日はだいふ冷え込むのだったと思い出す。私の体は、外を歩いていても火照っていた。
帰ったら早速記事に取り掛かろう。穂波津首は美しい。
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