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怖がりのあなたが愛おしいから
「感謝の言葉自体は大事ではありません」
「心が大事なんです」
小学校の道徳の授業で聞きそうな話を徳が高そうな表情で放ち続ける彼女に石を投げる者は、実際この世に沢山居るだろう。人は、大きな善より小さな悪を見つける事の方が大得意なのだ。
「聞いていますか中原さん」
「いいえ全く」
「はあ……」
「嘘です、聞いていました。新興宗教とか開いたらいいと思います」
彼女は意識だけが天にも昇っていそうな舞台役者のユウジさん。苗字が『有司』の女性だ。この世界から争いがなくなって、平和を本気で願っている。理想を持つのは大事かもしれないが、私には彼女の話は毎回中身が無くて薄っぺらに思える。
「中原さんて、友達少なそう」
「友達が少なそうという事を嫌味だと思ってる人が、心が大事とか言ってる」
「私このバーで中原さんに会う度に仲良くなろうと思ってるのに!中原さん私のこと嫌い!?」
「そういう飾ってないあなただけ好きです」
彼女の言う通りここは私がたまに来る近所のバーだ。マスターと世間話をして、適当に何杯か飲んだら帰るというのを続けていたらよく会うようになって、ユウジさんから話しかけられた。
初対面の時どうして人は悪口を言うのかなんて話されて酒が入ると気が大きくなって、その大きくなり方が世のすべてを憂うタイプの人なのだと思う。
「え、好き?」
「ユウジさんすぐ勘違いしそう」
「ねえ!もう!」
ちょっと嬉しそうな顔をしたらすぐ怒ったり、私はこういう喜怒哀楽がはっきりしていて割と空気を読まずに領域に踏み込んでくる明るい人間が実は嫌いではない。
「前キープしてたやつ、あれロックで」
気が付いたら隣に人が座ってマスターに話しかけていた。あまり人が多いのは得意ではないし、勘定をしようと席を立とうと脚を入り口に向けようとしたところで声を掛けられてしまった。
「中原さんこんばんは」
顔を向けると声の主は白かった。どうしてここに居るんだろうか。
「あれ?知り合い?」
「はい。中原さんのストーカーです」
「怖い冗談やめた方がいいですよ、穂波津先生……」
ボトルキープしていたらしいので、何度か来ていた事があるのだろうし偶然だろうが、お茶をした後正直もう暫く会いたくなかった。恐ろしかったからだ。
「中原さんこんな綺麗な人にモテモテなの?」
「いや、揶揄われてるだけです」
「すっごいお綺麗ですね!髪も綺麗ー。モデルとかやってる方?私は──」
「俺のだから仲良くしないでね」
「え?」
穂波津先生はユウジさんの言葉を遮って微笑みを絶やさないまま何か言った。いや、しっかり聞こえてはいたが聞こえなかったフリをしたかった。
「順番を間違えました。ごめんなさい。穂波津です。すごく綺麗で明るくて優しそうな人に綺麗って言われて嬉しいです、有難う」
「え、え?あ、え?中原さんこの人とそういう……?」
「あなたのお名前は?」
マスターが先生に酒を出したら背を向けて何かし出した。不穏な空気を感じ取ったのか無意味にグラスを拭いている。
「ゆ、ゆうじです……苗字がゆうじ」
「ユウジさん。綺麗な女性の呼び方がユウジって格好良くていいな、漫画に使いたいくらいだ」
「あー……、ユウジさん、この人は」
「待って穂波津って漫画家の?」
「そうです。漫画を描いてご飯を食べてお酒を飲んでいます」
「え、え!!私単行本持ってます!ファンです!私役者なんですけど、あなたの漫画のおかげで諦めないで続けようって思ったんです!握手してください!」
ユウジさん、穂波津先生に物怖じしないんだ。と呆れながら自分を挟んでユウジさんが勝手に盛り上がっていたのでこの隙にお勘定を、とマスターに目配せした。が、叶わなかった。
「マスター、中原さんに僕と同じ酒あげてよ」
「いや、私もう今日は……」
「一杯だけ」
「さっきのなんですか」
「さっきの?」
「……あなたのものじゃないです」
「それは違うよ」
「2人ってどういう関係なの!?」
ユウジさんも随分と酒が回ってきたようでバーで出す声量ではない言葉をぶつけてきた。私が知りたい。穂波津先生は私を困らせるのがマイブームにでもなってしまったのだろうか。
「僕が一方的に中原さんの事好きなんだよね」
「穂波津先生にモテてる中原さん凄い、何者?」
「あの、穂波津先生そういうのもうやめてほしいです」
「迷惑?」
「…………」
恐ろしいから。と素直に口に出せた気がするものの、こんなに優しそうな顔をしている人に突き放す言葉を言うのが躊躇われた。
「あ、彼氏迎えきたみたいなんで帰りまーす」
「そう、会えて良かったですユウジさん、有難う」
「えー嬉しい!私もです!また!」
穂波津先生は笑ったまま、ユウジさんが出口まで歩くのに顔を向けて手を振っていた。
「はあ……」
思わず無意識に深いため息が出てしまって、ふと意識をテーブルに戻すと先生が私の前にあるグラスを指差していた。
「まだあります」
「穂波津先生、本気で言ってるんです。申し訳ないんですけど、あなたのからかいは、度が過ぎてて……」
「からかってないです。からかってないんですけど、からかってなかったら中原さんはどうするんですか?」
意を決して結構しっかり言い切ったらまた難問を出された。私は本気で穂波津先生に好かれている?否、この前友人として変わらないでいいとこの人は言っていたから、私はどうもしないでいいはずだ。
「……ゆ、友人として。これからも。恐れ多いですが」
「中原さん何でそんなに私にへりくだって話すんですか?」
「そりゃあそうでしょう」
「そんなにへりくだるのに嫌な事は嫌ってしっかり言うところが好きです」
「穂波津先生実は結婚してたりしませんよね」
何も予測が不可能な人だからか、こんな突拍子もない事を聞いても笑っているだけ。私の狼狽している顔を見て、口角は上を向いて目尻は下がっていた。
「結婚」
「え?いや」
「中原さん」
「やめてください」
とてつもない冗談が来ると思って先に防御してみたが先生には何も通じなかったうえに、予想の遥か上から落としてきた。
「ずっと友達でいたいな」
声色が少し悲しげに思えたのも束の間で、ごめんなさいと言いながら先生はお金を置いて店を出て行く。私は何か傷付けたのかと少し焦って自分も支払いを終えて追い掛けた。
「なんだ、よかった」
先生は店の横にあるベンチで座っていて、私を見て子どものように口元を手で押さえて笑い始めている。
またからかわれたのかと少し苛立ちを覚えそうになった時、先生は言葉を吐いた。
「契約も書面も約束も要らない。代わりに切っても切りきれない友達でいたいってことです」
「は」
「恋人より夫婦より友達の方がいいですよね?」
「いいですよねって、恋人と友達じゃ気持ちとかやる事とか違う」
「友達とはキスしてはいけない法律なんてありましたか?」
穂波津先生がいきなり立ち上がるのでそういえば自分より背が高い先生と直前の言葉に思わず後退ったが、体が強張ってしまう。
「葛藤です。これは名前がある感情です。中原さん、僕の事怖いんですよね。思った通りとても恐ろしいことを考えていると思います。中原さんにそのままでいて欲しいのに、私のそばにいてほしい……」
先生はただ立ち尽くして、私が目の前に居るのに俯いて落ち込んでいるようだった。この人本当に私の事が好きで、困っているのだろうか。じゃあそれは恋じゃないのか?全くいやな話になってきた。私は恋愛をしたくないのだ。誰に何と言われようと生涯独身がいい。今はそう思っている。
人と常にある関係を続けていく大変さを知っているので、もう懲りたというか向いていないからやめようと、人と適切な距離でしか関係を築きたくない。
「中原さん、私はね」
「え」
伸びてきた手を振り払い損ねた。両耳を思い切り強く手のひらで抑えられて、周りの音が聞こえにくい。目の前に先生の顔がある。それと後ろの街頭しか見えない。顔を動かせない、なんだ、キスをされるのか。それにしては頭をこのままぺしゃんこにされるのではないかという程の強さで挟まれている。
「───────────」
私の耳を塞いだまま穂波津先生は何かを喋った。うまく聞こえなかった、というより何も聞こえなかった。
「き、聞こえないです。あと痛い」
口を開くと漸く先生は手を離してくれたが、笑っている。やっぱりこの人は怖い。夜も更けてきて風が冷たい、抑えられていたところだけが熱を持っていて、先生も体温があるんだとかいやに冷静に思ってしまう。酔っていて混乱しているのかもしれない。
「俺と中原さんの物語みたいで、面白いですね。終わらせる方法を教えてあげます」
「何の話ですか」
「僕の家のベッドで寝てあたしに歯を磨かれるか私のことを殺してください」
「歯を磨かれ……?いや終わらないじゃないですか」
「終わりますよ、じゃあまた」
街頭に照らされなくても白い先生の後ろ姿を、あほみたいに立って眺めていた。
白いシャツ一枚だけ着て寒くないんだろうかと気が付いて、私は酔っていたので、上着を貸しに追い掛けた。
カラスが鳴いている。穂波津先生は私の首を絞めながら、大丈夫だよと何度も何度も言い聞かせてくれた。乾燥していた私の唇を指で逆撫でて皮を剥がれた。血が滲むのを自分で舐めると不味くて、もう観念して乾燥したままなのは終わらせる事とした。
人生で最も心地が良い事の罪悪感で、死んでしまった方がマシかと思った。
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