螺旋階段

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 静かな空間だった。風呂で火照った身体がいい塩梅に冷めてきて、精神も落ち着いてきた。窓の隙間から入る風が顔を撫でて心地よい。干したばかりのシーツも肌触りは何物にも代えられないほどの快感だった。  風にひらめいた薄いカーテンが勢いを失って衣擦れの音を立てる。  携帯がけたたましく夜に響く。一色だった部屋が元の色を取り戻してしまった。暗がりに順応した目は、急な光が世界を真っ白に映す。薄目を開けて何とかベッドサイドを手探りする。その合間も眠りを妨げる叫びが止まらない。  緩やかな心拍をこれ以上乱したくなかった。まだ見も知らぬ相手に良心の呵責に期待した。数拍、眠ったままの姿勢で待つ。  手を伸ばすか、指の先に神経を巡らせたところで急にあたりが静かになった。  ざわめく血の気を収めるのに神経を集中する。脳に沸いた泡を一つ一つ消していく。  耳の奥が、ゆっくりと静寂で充ちていく。 夜の帳を食い破る悪魔のように、また携帯が鳴った。心臓が一気に縮まって、体中の血液が脳に集中する。 「あー、もしもし」 「裕紀か?」  声の主は悪びれることなく聞く。微かに聞き覚えのある声ではあった。 「そうだよ、誰だ」 「誰だってなんだよ、マサだよ。覚えてるか」  電話の奥から、カツン、カツンと音がする。金属同士がぶつかるような甲高い音だった。マサと名乗る人物は、やはり悪びれずに平坦なトーンで問う。 「知らないね、切るぞ」。 「ほら、高校の同級生の。わかるか?」  指を動かす間もなく、ひどく前のめりに声が携帯から聞こえた。間延びした、感情の読めないトーンが変わる気配はない。海馬の皺の一番端に、マサは確かにいた。高校時代の記憶では、地味な男だった。確か、図書委員か何かだった気がした。 「わかった、わかった。いたよ。どうした、こんな夜に」 「いや、ちょうど去年の同窓会、覚えてるか」 「わかるけどもな」  言葉を継ぐ間に、カーテンの隙間からバイクの音が派手に鳴り響いた。破裂音が鼓膜の奥まで響く。脊髄反射か、マイクを塞いでやる。 「悪い、電波が悪いのかな。聞こえなかった、なんて言った」 「いや」 「気のせいか。そうだそうだ、同窓会で独り身同盟組んだの、偶然思い出してな」  読経のようにひたすらに言葉が流れてくる。微かに決して早口にはならず一定のペースで、いや、とか、そう、とか接続詞を多用しながら切れ目なくしゃべり続ける。  確かに、酔った勢いでマサと肩を組んだ記憶もかすかに残っていた。外見は相も変わらず地味で垢ぬけない印象が、酒の席では勢いの良い好感触の青年のはずだった。 「すこし、裕紀と久しぶりにどうしてもしゃべりたくなってな。実はあの後、実里ちゃんと二人で飲む機会ができちゃってな。それで実はな」 「あー、わるい、相談とかではないんだったら明日でもいいか」  強引に、声を張ってかすかな隙間に割り込んでいく。金属音は、同じリズムで響いていた。 「そうか、夜遅いんだったな明日でいいから、またかけてくれ」  代り映えなく言葉をつなぐせいか、ばつの悪くなる暇も腹を立てる暇さえなかった。    いつもと同じ時間だった。 玉ねぎをみじん切りに。そして、ニンジンを適度なサイズに。じゃがいもは入れない。  実里という女性も確かに同級生にいた。マサなんかよりずっと記憶に残っている。少し派手で、声の大きい。部活動はしていなかった、気がする。  包丁をリズミカルに動かすのは気分が良い。肉を適度なサイズに。バラ肉の脂身は最初に取り除いて、炒めるときに使ってあげる。ごみのリサイクルのような感覚で。炒めながら、鼻歌を歌うのも一部ルーティン化していた。  もし、実里との生々しい話をされても回答に困ってしまう。しかし、彼が突然電話してきたことを考えると、何か重要な問題があったのかもしれなかった。  煮込む間も、テレビはつけていたが全く内容が耳にすら入ってこない。網膜に映った像すらも、脳に届くころにはあやふやだった。  喜びを共有する、という仮説を証明するには、あの平坦な声が気になってしょうがなかった。  完成したカレーを平らげるころにはもう十一時を回ってしまっていた。  掛け時計の秒針の音が、やけに大きく耳の近くで鳴っていた。血管を通って、耳の下まで拍動が伝わってくる。皿を洗う間も、明日の準備をする間さえも、耳の裏に時間を刻む音が張り付いて心を急かす。  ベッドに寝転がろうにも所在なくて、手帳を開いてみる。ぎっしり真っ赤に染まったカレンダーを明日から順になぞっていく。もう捨ててしまったルーティンだった。仕事の予定を眺めて、何から進めていくのか、優先順位を決めていく。明日うまくいくためにずっとやっていたことだった。どのプロジェクトは誰とやっていて、それぞれどういった人間で今はどういった状況か。一個一個を頭の中に浮かべていく。  いざ集中すると、一定のリズムが心地よく、ことさら冷徹に、真っ青になって集中していたに違いがなかった。  携帯を視界の端に、呼吸を整え机に向かう。鼻から吸って、口から吐いて。目も開きすぎず頭の中で地図を描いていく。  ため息に近い深呼吸でソファに沈み込む。芸能人のスキャンダルなんかを指で流していく。話題作りのためだけに、網に引っかかった情報だけをいけすの中に放り込んでおく。氷で締めたとして、傷ついたり、腐ったりして明日には使い物になっているかもしれないし、むしろ発酵して予期しないタイミングでいい味を出すものもあった。時間は十二時を過ぎていた。  熱愛報道か、という記事が急に画面が切り替わった。反射的に通話ボタンを押して電話をつないでやる。 「おー、裕紀。今、家か」 「家だよ。どうした」  上機嫌に声が訴えてくる。 「明日の会議で使うから、もしあればガムテープを持ってきてほしいんだ」 「あるよ。じゃあ、持っていくわ」 「おう、ありがとう」 「この間の仕事、よかったらしいな。挽回したって俺も聞いたよ」 「秘訣、教えてやるから。また今度飲みに行こ」 十二時を回っていた。  押入れの箱からガムテープだけ鞄に突っ込み、携帯を片手にベッドに飛び込む。充電だけは忘れない。  履歴に残っていた番号をじっと眺めてみた。じわじわとシミのような感情が頭の中に広がっていく。ため息をついても、晴れるばかりかむしろ深いところまでしみ込んできて、取れる予感すらなかった。 「裕紀か?」 「そうだよ」  ワンコールでつながった。 「このタイミングで電話くれるなんて、思ってなかったよ」 「ああ、遅くなって悪かった」 今日も、電話の裏で例の金属音が鳴っていた。 「話したい事、なんだったんだ」 「そう、結局実里と飲みに行ったんだけどもさ」  やはり口調は変わらない。奇妙な雰囲気だった。 「趣味で意気投合しちゃって。ツーリング? 二人で峠攻めたりなんかしちゃって。」  言葉だけは上機嫌に語ってくる。 「ちょうど昨日も二人とも休みだったから。彼女OLで、休み同じだからさ。ツーリング一緒に行ったんだよね。もう最高で。」  適当に相槌を打つだけで、話は滑らかに進んでいく。 「峠の上で二人で肩組んだりなんかしちゃってさ。メット片手に語り合って。大体彼女はさ、こう言うんだ」  彼女に対する賛辞を事細かに述べる。聞いていられなかった。結婚したいと思っている、だの、親に挨拶をしたい、だの。当てつけと断定できるくらいの言葉が列を成して襲ってくる。延々と続く惚気話を、眠気をおして聞き流す。 「指輪を買ったんだ。ダイヤの。高かったんだよ」  思いをなぞるような言葉が、急に止まった。VHSが最後まで流れ切ったみたいに。  音圧の違いで、鼓膜が悲鳴を上げる。息継ぎが必要だった。 「この、カツンカツンって音、何なの?」 「階段。今帰り道で」 いや、階段だったら長すぎるだろ、と電話越しに、突っぱねるように鼻で笑ってやった。 「そう、長いんだよ」  裕紀から電話があるまで暇つぶし何段かに数えてたんだ、とやはり平坦にマサは言った。 「今、ちょうど一千万くらい、かな」  不可解な言葉とともに、悪女の噂も思い出された。  甲高い金属音は、あいも変わらず同じリズムで響き続けた。 * * *  「地面が、落ちていく感覚がするんです」  彼は絞り出すようにそう言った。しっかり髪を整えて清潔感もあるし、シャツにはシワ一つなかった。観葉植物とソファと机、そしてクリーム色の壁紙。小綺麗な空間にマッチする患者は意外と少なかった。医師の経験上、幻覚を覚えるまで自分の精神を悩まされた人は何かしら生活に影響を及ぼしているものだった。  うなじからつま先まで、全うに全力で生きてきた営業マンそのものだった。 ただ、眼孔が異常に落ちくぼんで影を作っている。 「それは、とても恐ろしいですね」 彼のリズムに合わせて医師は言う。 ええ、ええ、と彼は何度かうなづいた。 「ええ、そうです。恐ろしいのです」 顔を手で覆い、彼はゆっくりと述べる。 「明るいところでは良いのです。暗いところで一人になった時ですよ。いけないんです」 「ひとりになると、いけないんですね」 「ええ、ええ、地面に取り残された感じになるのです」 「フリーフォールで落ちていくような?」 「ええ、そうです。どうも心もとない。でも、一人暮らしなもんで」 「ひとりになってしまうんですね」 「これがもう三ヵ月も続くもんだから」 「そんなに長い間苦しみに耐えてきたんですね」 「そう、だから電話したんです」
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