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連日の寒さから一段階厚着を増してまたもや例の公園の前に来ていた俺は、冬月のこじんまりした後ろ姿を見つめていた。黒のマフラーに顔を半分埋めて、ダッフルコートからちょこんと伸びた白魚のような指先は冷たそうだが、それでも何千年も前からある岩のように身じろぎしない。
多少寒さに耐性がありそうな名前の彼女も、この気温の中じっとしていれば、マンモス顔負けのカチンコチンな標本になりそうだ。
いつもと同じ時刻。
午後二時半。
さてどう話しかけたものか、と思案投げ首で日が暮れそうになるが、こと冬月に関しては待っていても埒があかない。このまま帰ってもいいのだが和衣にどやされるのはまっぴらだ。
あじさい公園だとかいう梅雨の時期しか考慮に入れていない塗料がはげまくっている看板の横を通り、葉が落ちて久しい木々ばかりの公園内に踏み込んでいく。寒さのせいか、親子連れすら一組もいない。それとも、いまの子供には公園より楽しいことがいっぱいあるのかもしれない。
ベンチの横までたどり着いて、俺は俺なりに意を決してカラカラの喉から声を絞り出す。
「よお、冬月。奇遇だな。えっと、こんなところでなにしてんの?」
「…………」
虚ろにただ空を眺めていて、俺の声に一ミクロンも反応しない。イヤホンとかはしていなさそうだが。
「学校、サボり? まだ授業中だろ」
「…………」
「家、この辺? 知らなかったな。駅で見かけたこととかないし」
「…………」
無視。完全なる無視だ。
「あのさ、冬月――」
「聞こえてる」
自動応答音声のように言う冬月。言葉のあいだに音階は皆無で平べったい。表情だって皆無。
「聞こえているなら返事してくれよ」
「いま、した」
確かにそうだけどさ。
俺はため息がちに冬月の右に座る。するとスッと一人分左に避けられた。
まあいいさ。
「ん。どっちがいい」
と、コートのポケットに忍ばせておいたホットの缶コーヒーとコーンポタージュを差し出す。
「要らない」
「えっと、寒いだろ?」
冬月は缶コーヒーの方を一瞥するが、
「要らない」
「……じゃあ置いとくのでご自由に」
俺らの間にぽっかりと空いている隙間に缶コーヒーを置いた。
「…………」
「温まるぞ」
「…………」
「ほら冷えちゃうぞ」
根負けしたのか無言で缶コーヒーを手に取ると冬月は、プルタブを引こうとするが手がかじかんでいるのかうまくいかない。
「貸してみな。……はいよ」
「…………」
招き猫のようにじっと動かずただ俺の目の内側を見るようにする。
「なんだよ」
「志茂山って……変態って噂されてたから警戒していたんだけど」
「なっ。変態?」
「だって……体操服盗んで停学」
「……は? 俺の停学理由、そんなんになってるの?」
冬月は微妙に首を傾げている、ように見えなくもない。
「誤解だ、誤解。体操服を盗んだヤツを、俺が殴ったんだ」
「殴った?」
「むかついたんだよ」
「ふうん」
冬月は俺からコーヒーを受け取ると、それを一口啜る。
「甘っ……」
「ブラックの方が良かったか。コーヒー好きなだったり?」
「そうでもない」
「じゃあ嫌い?」
「そうでもない」
「……俺は好きだけど、和衣はコーヒー嫌いでさ。ああいや、嫌いっていうか、飲むとすぐに腹を壊すらしいんだ。カフェインがダメみたいで」
「……アイって神代さんのこと?」
「そうそう。冬月も話したことあるだろ?」
「ない」
ないのかよ。和衣のやつ、平然と嘘をつきやがった。
冬月は興味を失ったようにまた前を向く。会話は終わってしまった。
沈黙の間を風が吹く。俺はその冷たさに、神に祈るかのように手をこすり合わせたり、コーンポタージュを握りしめたりしてみるが、やはり冬月は微動だもしない。ただ上の空の文字通り、上の方をただ見ている。
どうしたもんかね。これじゃあ雑談作戦も功を成さなそうだ。
「――志茂山はなにしに来たの」
驚いた。
まさか冬月から話を振ってくるとは。
「……気になってさ。冬月、なにしてんのかなって。こんな昼間っからベンチでジッとしてさ。ソーラービームでも打つの?」
「……ソーラービーム?」
「あ、いや……ほらじっと向こうの方を見ているから。日光を身体にぐっと溜めて、ビーム発射! みたいな」
俺はなにを言っている。痛い、痛すぎる自分が。
「……志茂山って悩みなさそう」
「って思うだろ? 意外とあるんだな。これが」
「ふうん」
「会話、終わらすなよ。そこは普通聞くだろ、例えば? って」
「……例えば?」
「停学中に源氏物語と平家物語のどっちを読破するか、とか」
「…………」
「いやいやほかにもたくさん悩みはあるぞ。うち、母親死んじゃったし父親は海外に単身赴任しているし弟は病気がちでさ。結構大変なのよ。家事とかもあるしさ。なんなら今晩の夕食を冬月が作ってくれてもいいんだぞ?」
「…………」
また無視。ちょっと扱いがひどい。
「あ、いや夕食ってのは、冗談」
横目で冬月の顔を覗いてみる。すこし、眉にしわが寄っているような気がした。
「……家、大変なんだ」
「ああ、うん。でも《普通の家庭》に憧れているとか、そういうものじゃないけど。受け入れるしかないわけだし、文句言っても始まらないし。それに、」
「私はイヤ」
雷鳴のような明確な拒絶。
冬月が持つもう冷えてきたであろう缶コーヒーを握る両手は、幾分か力が入っているように見えた。
「……なにが嫌なんだ?」
「…………家族がバラバラになること」
「バラバラ?」
「先月、お父さんとお母さんが離婚した」
自分の不幸話は笑って言えるが、他人のそれはそうはいかない。他人の不幸に慣れるほど、まだ俺は大人ではないのだ。気の利いた一言も言えない自分に腹が立つ。
「――妹はお母さんと一緒に、おばあちゃんの住んでいるマンションに引っ越した。私はお父さんといまの家のまま」
「……妹がいるんだな」
「もともと、うちの中には壁があった」
「壁?」
「昼と夜の間にある分厚い壁。昼間はお母さんが普通に家事をやって、妹と私が学校から帰ってくると一緒にテレビとか見て、でも夜遅くお父さんが帰ってくると急に家が静かになる。誰も喋らない。お父さんが怖いとかってわけでもないのに、家の空気が、歯車が急に外れたような感じになる。これは離婚するよねって誰もが思うような家だった」
「そりゃあ……きついな」
「私もそう思ってた。けどいざ離婚して別々の生活が始まるとやっぱりそっちの方が辛い。友達が帰ったあとの自分の部屋に散らかるお菓子の袋とかゲームソフトとか見ている感じと似てる。小学生のときはこれでも私、友達結構居たから」
その寂しさやら切なさを、すべて理解出来るとは言えない。でも母親を失って父親が遠くにいる俺も類似の感覚を覚えたことは数知れない。
「人のいない家って冷たいよなあ」
「家が妙に広く感じるの。やっぱりお母さんと妹には一緒にいて欲しかった。いまさら無理なのはわかっているけど」
冬月はなにかから瞳を逸らす。
ふいにベンチの前を親子連れが通り過ぎる。母親に手を引かれた小さい女の子は、たどたどしく小さな歩幅で進む。
「同じ家に暮らすのは難しくても……会いに行くくらいなら出来るんじゃないか」
「お母さんが出て行くときに、そんな話をした。会うのはいいけれど、頻度は半年に一回くらいにしましょうって。……お互いの生活もあるから。あんまり依存するのもよくないって」
「依存つってもな……」
そのとき、冬月が上の空のようにぼうっと見ていた方向、公園の枯れた木々の隙間に見えるマンション。そのらせん状になっている階段を昇っている赤いランドセルを背負った少女の姿が見えた。俺は気がつく。
「――もしかしてここから妹を見ていたのか?」
「椿っていうの。二年生」
「……だからこの時間に」
「私、離婚の件で病院に通っているから、早退の理由は通院ってことにしてあるから」
妹さん――椿は、三階まで昇って左から二番目の部屋に入っていった。マンションの下まで行ってその部屋の郵便受けを見ても、きっと冬月姓ではなくなっているのだろう。
「……会いに行けばいい」
「え?」
「会いたいなら会えばいいだろ。こんなに近くにいるんだ」
「だから言った。それぞれの生活があるからって」
「冬月はすこし考えすぎ」
「志茂山は考えなさすぎ。殴ったら停学。それくらいわかるでしょう……それに、椿にもお母さんにも新しい生活があって、もう私なんかには会いたくないかもしれない」
「本当に、そう思うのか」
冬月の真っ黒な瞳に動揺の色が浮かぶ。
「それは、」
「――離婚したって離れて暮らしてたって、家族は家族だ。離婚届なんて紙切れ一枚で家族のことを心から嫌いになる親や妹なんていない」
実際はいなくはないだろう。ただ、俺がいてほしくないということ。
もし死んだって母さんは母さんだ。そばにいることが家族の定義ではない。俺はそう思ったし、これからもそう思う。
「でも……」
冬月がその先を言い淀む。
俺にだって散々現実から逃げてきた過去がある。家族のことで随分悩んだ。でも、それを知っているからこそ、冬月には立ち向かって欲しかった。
「……ねえ志茂山。私は椿に会って、後悔しないって言えるかな」
「やってみなきゃわからん」
「…………」
「ただ、ここでただじっとしているよりはマシかもしれない。もし後悔するようなことがあればやめればいい。やり直しは効く……かもしれない」
「……頼りないね」
「よく言われるよ、弟に」
「……でも、そうだよね……きっと」
そう言って彼女は凍っていた表情を溶かした。
――ああ、やっぱりだ。
冬月柊はやはりソーラービームを溜めていたのだ。じっとして力を蓄えていたのだ。だって初めて破顔した彼女の表情は、冬の薄弱な太陽の光を全部吸収してもなお足りないくらい、満開の花のようだったのだから。
「……もうこの公園には来ないようにする」
「そうしとけ。風邪引くし」
「うん。本当は、寒くて死にそうだった」
「そんな冬っぽい名前なのにか?」
「名は体を表さないんだよ」
「そういうもんかね」
「……じゃあ志茂山。ちょっと用事出来たから。また、学校で」
「俺は年明けまで停学だけどな」
「ちゃんと勉強した方がいいよ。神代さん、頭いい人が好きって言ってたから」
そう言ってベンチから去る小さい背中を、俺は肩をすくめながら見ていた。彼女がこれから向かう先は言うまでもないのだろう。
――あれ。というか、おいおい。和衣と話したことないっての、嘘かよ。
まったく。
教室でいつもじっとしている無表情の冬月柊。彼女の人間らしいところを、この停学中にちょっとだけ垣間見られた気がしたと、俺は思った。
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