僕の昔の”恋”と現在の家族

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 雨が降っている。僕はその時どうしようかと、取り敢えず使う予定も無いバス停で雨宿りをしていた。  会社の帰りに雨に降られ、このバス停に逃げ込んでもう三十分。仕事が久し振りに早めに終わったから、家族との時間を過ごそうと思っていたのに、こんな雨に降られてもう三十分も過ぎてしまった。こんなのじゃ早く帰れた意味が無くなってしまいそうだ。  そもそも携帯を会社に忘れてしまった事も原因になっている。その事を気付いたのは駅に着いたとき。素直に取りに戻って居たら、今頃迎えを呼んで楽しく過ごして居るだろう。  いっそのこと走って家まで帰ってしまおうか。でも、夏の終わりの夕立はかなり強くて、今もバス停の鉄の庇をバチバチと叩いていた。恐らく、家までまだ走っても十分程有るからずぶ濡れになってしまうだろう。  そうなるとスーツのクリーニング代がかかって妻に怒られそうだ。この頃は妻と細かい事で喧嘩をしていたので、そんな事態は避けたい。  雨は僕の辛い記憶を蘇らせる。あれはもう二十年程前の僕が中学生だった頃、その当時僕は世界で一番の恋をしていた。相手はそれはもう幼い頃の、幼稚園からの知り合いで、特徴と言えば笑顔のとても可愛い子だった。  やっとの事で彼女に告白したのは今日みたいな雨の日のバス停だった。その日は彼女が引っ越してしまうので、もうチャンスが無いと思って告白したのに、その子は遠く離れる事を理由に僕の告白を断った。それが本当の理由かどうかなんてそれから確かめた事なんて無いけれど、僕はそれでとても深い心の傷を負った事を憶えている。  懐かしい思い出をリフレインしながらも、これはどうしたことだろう。僕は悩んでバス停のベンチに座ってしまった。もう空の端っこには夜が訪れていた。でもその反対側では夕日が残っている。不思議な光景が広がっているのを眺めて、この風景を僕の愛する人たちと見たいと願っていた。  しかしそんな事を思っても叶いやしない。もう冷たくなった雨に空気までが冷却されて風が涼し気に吹いていた。  そんな風と一緒に聞きなれた声が聞こえた気がした。陽気なメロディがどこか間違っている旋律を奏でていた。軽やかな歌声は波の様に、僕の意識の中に打ち寄せては消えていた。僕は項垂れていた顔を挙げて振り向いた。  家とは反対方向のそこから買い物袋を提げて歩いてくる僕の妻とそして愛娘が楽しそうに歌を唄いながら近付いていた。二つならんだ傘が楽しそうに揺れていて、雨の降るモノクロの街に鮮明な色彩を持った二輪の華を咲かせている。そんな花束の方に僕は大きく手を振った。  すると妻が先に気付いて娘に僕の方を指差した。その瞬間娘は今までも笑っていたのに「パパだ!」と満面の笑顔になって走った。  トテトテと僕の方へ幼い足音を響かせながら歩いてくる姿がとても愛らしい。そして近付くと傘を離して僕に飛びつこうとしたので、娘を受け止めて高く持ち上げるとギュッと抱き締めた。ちょっと涼しくなっていた心が暖まる。  僕は娘の顔を見ると直ぐ近くのその笑顔が、とても好きだと思った。どうしてだろう。良く知っているのに懐かしく、心がときめいた。  そんな訳の解らない感情を抱きながらも、妻の方へ娘と一緒に笑顔を向けた。するとそこではさっきまでずっと降っていた雨が止んで、空が、夕陽のオレンジから夜の藍へとグラデーションになっていた。そんな空を見上げて妻が自分の傘を閉じて、娘の傘も拾って閉じた。  やっと僕達の視線に気が付いた妻は笑った。  空気中に残った雨粒の水分がキラキラと残り僅かな太陽の光を反射させて彼女は天使の様に瞬いていた。  その時に僕はさっきの感情を思い出した。まだ若い頃に彼女の笑顔をとても好きに思ったんだった。それで彼女とずっと一緒に居たいと願ったのだった。あの頃の想いは叶ったのかと僕の右腕に居る子をまた抱き締めて、そして愛し、結婚し、子供を産んでくれた彼女が近付く左腕で抱き締めた。  彼女は「どうしたの?」って驚いていたけど、僕は今の幸せを噛みしめて居たいだけだった。  そして三人で手を繋いで段々と夜の藍に染まってい行く街を家に向かって歩き始めた。そして僕はちょっと照れ臭いけど二人に「好きだよ」って呟いた。すると同じ言葉が返って、また幸せになる。こんな事をあの頃の僕の願い。  幼稚園からの知っている僕の好きな彼女とその子供と歩けているのは僕の夢だったのに叶っていた。 おわり
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