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プロローグ
夏を間近に控えた今朝の天気は、重い雲が立ち籠める暗い空だった。
藤川雷亜は砂浜の上に膝を抱えて、力なく項垂れていた。
目の前にはカラカラに乾いた流木が、死体のように埋まり、側に転がる潰れた空き缶は、口から黒い液体を吐いて虚脱していた。
雷亜は不意に顔を上げた。
重い雲の合間から、金色の光が梯子のように降りてきた。
綺麗だった。
(そういえば、母が雲の合間から見える放射状の光を『天使の梯子』といって、見た人に幸せを運ぶと言っていたっけ……)
雷亜は立ち上がって、その光りを見つめたまま波打ち際まで歩いた。足を海に入れてみると、思っていたより心地良かった。
海は雷亜を歓迎しているようだった。そう思うと、自分の居場所は海の底しかないと感じた。
母さんの所へ行こう。
雷亜は決心し、前を見つめた。
すると、朝日に照らされた水面に何かが動いた。
──天使?
(──え?!……え?……あんな子、さっき居たっけ?)
雷亜は茫然とした。
天使の梯子から今、地上に降り立ったかのような美しいプラチナの髪が、宝石を撒き散らすように、天に向かって水飛沫を上げた。
白いシャツは濡れて、美しい肌に張り付き、地上の穢れから天使を守るベールのようだった。
(堕ちてきたんだ……)
金色の光の下、一瞬だけ姿を現した天使は、美しい紫水晶の瞳で雷亜を冷たく一瞥し、また海の中に沈んでいった。
(──え?え?……消えちゃうの?
待ってよ!!)
雷亜は自然と走り出していた。
さっきまで心地よく感じていた海水は、重くまとわりつく邪魔な存在に変わっていた。
雷亜は力の限り水を掻き、天使の腕を掴んだ。
(やった!)
だが、この天使は美しさとは対称的に力強く暴れた。
雷亜は負けじと力を込めた。
(このまま海の底には行かせない!天使は天に昇らなければ!)
自分勝手な使命感に燃え、力ずくで天使を引っ張り上げた。
水面から顔を出せるようになると、天使は何かを言った。
雷亜に対して、かなり怒っている。
天使かと思っていた子は生身の人間だった。
でも、なんて言っているのかさっぱり分からない。
「死んじゃダメ!君は家に帰るんだ!」
自分が死のうとしていた事など棚に上げ、雷亜は叫んだ。
天使は更に負けじと声を荒げたが、英語のようだったから、何を言っているのかさっぱり分からなかった。けれども、必死で脳内の引き出しから雷亜は知っている英語を見付け出した。
それは、暗い部屋で一人泣きながら母が聴いていた曲。あの曲のタイトルと出だし──
「I love you!! 」
と、雷亜は叫んだ。
──I love you
──I love you
──I love you
…………
天使の腕を引っ張りながら、ただひたすらその言葉を繰り返した。
「 I love you! 」
叫べば叫ぶほど、雷亜は最後の母の姿を思い出した。
──愛してるって言ったのに!!
──雷亜のために、母は生きていると言ったのに!!
──何で置いて逝ったの!!
──母さんの嘘つき!!
天使を引き留めるために叫んだ言葉は、いつしか母に対する恨み言ばかりを頭に連ねて叫んでいた。
すると、翳っていた紫の瞳は、まるで水嵩の増した雨樋が、これ以上の水分を受け止めきれず、ボタボタと至るところから雨をこぼすように、大粒の涙を溢れさせた。
そして、崩れ落ちる天使の体を雷亜はしっかりと支えた。ふわふわとした柔らかなプラチナブロンドが頬に触れると、急に心が甘く蕩けて、天使の体をきつく抱き締めた。
空を飛ぶカモメ達が甲高い声を上げた。
『この子を守りたい──』
雷亜の心にふっと湧いた感情。
芯から何かが熱く滾った。
そうか……。
俺はこのために産まれたんだ。
だから、母は俺を連れて行かなかったんだ……。
母がひっそりと笑ったような気がした。
でも、その天使は油断をすると、また自ら死に向かった。
だから、雷亜は身を挺してそれを止めた。
お陰で雷亜の顔には大きな傷が出来た。
けれども、雷亜は満足だった。
だって、天使が無事だったのだから──。
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