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婚約破棄
「王子妃の位は、君に相応しくない」
第四王子であるカージナルの一言に、あれほど賑わっていた舞踏室が一瞬にしてシンと静まり返った。
学園主催の卒業パーティー。四年の長きにわたり勉学に励んだ学生たちを送り出す晴れの式典が、王子の一言で凍りついた。
周囲はさまざまな表情を浮かべながら、場内中央に立つ見目麗しい二人を見つめた。
一人はカージナル。
友好国から嫁いできた母に似た中性的で柔和な顔立ちは若い女性のみならず、歳の離れた貴婦人たちの庇護欲を大いにそそり、数いる王子たちの中で一番の人気と言っても過言ではない。
つい今しがた、公衆の面前であのような発言をしたというのに、その顔にはいつもと同じ柔和で優雅な笑みが浮かんでいる。
そんな彼と対峙するのは、たった今カージナルから王子妃に相応しくないと宣言された少女は、第四王子の婚約者である侯爵令嬢。名をプリステラという。
燃えるような緋色の髪は美しく結い上げられて、顕わになったうなじからは匂い立つような色香さえ漂っている。
王子の言葉に、意思の強そうな切れ長の瞳がキリリと釣り上がり、真紅に彩られた唇が微かに歪む。
そんな二人に、周囲からさまざまな目が向けられた。
戸惑い、疑念、不安、好奇心……。
しかし渦中の二人は動じた様子もなく、互いに見つめ合ったまま。
長い沈黙の後、口を開いたのは侯爵令嬢の方だった。
「……それは、どういう?」
「どうもこうも、そのままの意味だよ。プリステラ」
第四王子であるカージナルは、蜂蜜色に輝く髪をかきあげながら、困ったように微笑んでそう答えた。
「だって君は優秀すぎる。王子である僕よりも、遙かにね」
カージナルとて愚鈍ではない。むしろ数いる王の子らの中では、一番優秀であるといえよう。
しかしプリステラの有能ぶりは群を抜いていた。
自国語のほか五カ国後を操る優秀な頭脳。算術や地理歴史も完璧に得業しており、兄と共に帝王学も学んでいるという噂さえある。
女の身で……と訝しむ者もいたが、学園では教授らと専門的な討論をしている姿もしばしば目撃されているので、あながちただの噂ではなさそうだ。
勉学だけでなく淑女としての立ち居振る舞いも完璧で、処世術にも長け、冷静かつ公平な目で物事を判断できる人物。それがプリステラだ。
そんな淑女の中の淑女であるプリステラと、優秀かつ国一番の美貌の持ち主と渾名されるカージナルは学園中の憧れの的であり、仲の悪さを感じるどころか寄りそっている姿に感嘆の息を漏らした者も少なくない。
将来は似合いの夫婦になるだろうと、誰もが口を揃えて言っていたのに。
卒業パーティーでカージナルの口から出たのは、プリステラを否定する言葉。
それはまさか……パーティーに参列した全ての者が、今後の成り行きを見守った。
「わたくし、何かご不興を買うような粗相を致しましたかしら?」
「いいや、全く。むしろ君は完璧だよ。だからこそ、君を妻にはできない」
刹那、会場中に小さな騒めきが走った。
それは次第に大きくなって、やがて喧騒へと変わっていく。
カージナルが発した言葉。それはまさしく婚約破棄である。
『なぜ殿下はこのような場所で婚約破棄なんて』
『カージナル殿下のお妃さまに、プリステラさま以上に相応しい方なんて、おられるのかしら』
『プリステラさまとのご婚約を破棄されるということは、わたくしたちにもチャンスが……?』
『殿下の気持ちはわかるな。自分より優秀な妻なんて、劣等感が募るに違いない』
『たしかにプリステラ嬢は完璧すぎるよな』
『殿下が彼女を手放すのであれば、我々が求婚しても問題はないよな?』
さまざまな声が、会場のあちらこちらから聞こえてくる。
それは当然、渦中の二人の耳にも届いているのだが、カージナルは美しい笑みを貼り付けたまま口を開かず、プリステラもまた静かに婚約者を見つめるばかり。
「……本心ですの?」
「もちろん。それにこの話は、陛下もご存じでいらっしゃる」
「陛下が?」
「半年ほど前から婚約破棄を願い出ていてね。ようやくお認めいただいた」
「そんなにも前から……」
まさか半年も前からカージナルが動いていたとは思わず、プリステラは小さな息を吐いた。
「今ごろは侯爵家にも、婚約破棄を伝える書状が届いているはずだ」
「本気、ですのね」
「私が冗談でこんなことをする人間じゃないということは、君が一番よく知っているだろう?」
「えぇ……えぇ、よく存じております」
まだ物心つかない時分に結ばれた婚約。以来二人は、長い間共に過ごしてきた。
互いの全てを知っていると言っても過言ではない。
そんなだからプリステラだからこそ、すぐに理解できたのだ。
カージナルがこの婚約破棄を、覆さないであろうことに。
「かしこまりました。此度の件、謹んでお受けいたしますわ」
「承諾してくれて嬉しいよ」
「最後に一つ、よろしいでしょうか」
「もちろんだとも」
「全てが殿下の思惑どおりに動くと思いませぬよう」
「……」
「詰めの甘い殿下のことですもの。いつか必ず、足下を掬われましてよ」
「……心しておこう」
「それでは御前、失礼いたしますわ」
プリステラはカージナルに背を向けると、静かに去って行った。シャンと胸を張り、まっすぐ前を向いて歩く彼女に、婚約を破棄されたばかりという悲壮さは微塵も感じられない。
その場にいた全員が、女王のような気品に溢れるプリステラの姿を目で追っている。
カージナルもまた然り。先ほどと変わらず美しい笑みを浮かべたまま、元婚約者の背中を見つめ続けた。
しかしその瞳の奥に悲哀の色が滲んでいることに、気付いた者は誰もいなかった――。
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