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 午後四時すぎ、駐在所のデスクで日報を書いていると、横開きの出入口が開いて、八十代の老人男性が入ってきた。 「どうも」老人は言った。  駐在員の木澤警部補はボールペンの動きを止めて、顔を上げた。 「ああ、村長さん。今度は何ですか?」  村長さんはニコニコ笑いながら、何も持っていない手を動かして、デスクの上に何かを置くそぶりをした。 「これ、落とし物。届けに来たんだよ」  またか、と思うが、口には出さない。  ボケ老人の世話をするために警察官になったのではない、と思うが、まさかむりやり追い返すわけにもいない。  I警察署管内のA駐在所。  A村はかつては独立した自治体だったが、平成の大合併のおりに、隣接するI市に実質的に吸収合併された。  旧A村は人口四千人ほどの小さな村。北、南、西の三方を低い山に囲まれており、盆地に近い地形をしている。村の東側に旧I市に至る、車二台がすれ違うのがやっとの県道が通っている。  A村に農業以外にはまともな産業はない。旧村役場で、今はI市役所の支所となっている建物の横に、ATMコーナー併設の農協スーパーがあり、その隣に個人経営の酒屋がある。あとは、クリーニング屋兼散髪屋が一軒、それと歯科医院が一軒。県道沿いに、大手傘下の24時間セルフガソリンスタンドが一軒。  商業施設らしきものは、以上で尽きる。  唯一、大規模な事業所と言えば、伐採したスギやヒノキを加工する製材所。  村内に駅はない。路線バスが日に四本、旧村役場前まで来るのみだった。  A駐在所は、旧A村全域を所管としている。  このような辺鄙な駐在所に配属されるのは、経験を積むための二十代の若い警察官、もしくは当直や徹夜の捜査、犯人の追跡が体力的に辛くなった定年間際の警察官に限られる。  四十代で刑事一課の係長を務めていた木澤警部補がこの駐在所に配属されたのは、左遷であることに疑いはなかった。  左遷されることになった心当たりも、木澤にはあった。  県警本部の刑事部では、捜査に必要な情報を提供してくれる人物(主に犯罪組織の構成員など)に、情報の見返りとして捜査協力費という名目で少なくない額の謝礼を支払っているのだが、実はその内実の大部分が実際には支払われておらず、幹部が利用できる裏金としてプールされている疑いがある。木澤はその状況証拠の一部を入手し、監察室に匿名で告発した。  しかし、監察はまったく動かなかった。仕方がないので実名を出して監察に訴えるべきかと悩んでいたところに、時季外れのA駐在所への異動を命令された。  はたして自分の告発と、この左遷とはいかなる関係を持つのかは、伺い知ることはできないが、全く無関係ということはないだろう。木澤に本部に居てもらうと困る人間が少なからず存在するということだけは、理解することができた。  言うまでもなく、木澤はこの異動には不服だった。  自分は刑事となり、悪い奴を捕まえるために警察官になったのだった。警察学校卒業以来、地道に仕事をこなしながら懸命に勉強して試験に合格し、ようやく一課で班を任されるようになった。さあこれから思うように活躍できるという時期になっての、この左遷である。  木澤の妻は左遷先であるこの村が辺鄙で不便であることに納得せず、また中学受験をひかえた子供に学校を転校させたくないという理由で、今でも県庁所在地に留まっている。よって、木澤は単身赴任という形で駐在所付属の一戸建てに住んでいる。  木澤は失望しつつある。
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