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二
「村長さん」と呼ばれているこの老人は、I市と合併する際に自治体の村長を務めていた人物。つまり、旧A村の最後の村長ということになる。
今でも村の人々からは親しみを込めて「村長さん」と呼ばれている。現在八十八歳。数年前から認知症を発症して徘徊をするようになり、幻覚を見ることもあるようだ。
村長さんは、兼業農家をやっている六十代の息子とその嫁との三人で、旧村役場の裏側にある一戸建てに住んでいる。
駐在所にやってきた村長さんに木澤は、
「今度は、何を拾ってきたんですか?」と尋ねた。
村長さんは、何かを置くそぶりをしたデスクの上を指さして、
「駐在さん、『喜び』が落ちてたから、届けにきたんだよ」と言った。
これまでにも村長さんは、謎の落としものを届けに来ることがあった。
純金の金塊が落ちてたと言って、かまぼこ板のようなものを持ってきたこともあるし、ダイヤモンドを拾ったと言って、石ころを持ってきたこともある。
「きっと、落とした人は困ってるだろうから。駐在さん、何とか持ち主を探してあげてよ」
はたしてこの認知症の老人にいったい何が見えているのか。今日はとうとう手に何も持ってないまま、『喜び』という無形物を拾ってきたらしい。
木澤はデスクのファイルから拾得物件預かり書を一枚取り出すと、
「それじゃ、ここに署名してください」と言って、ボールペンとともに差し出した。
村長さんがそれに記入しているあいだ、木澤は村長宅に電話をする。
すぐに、村長さんの息子の配偶者が電話に出る。
「あ、どうも、駐在の木澤ですが」
それだけを言うとすぐに悟ったらしく、
「すみません、すぐに迎えに行きますので。ご迷惑をおかけします」と言って電話は切れた。
もう、この老人が徘徊して不思議なことをやって回ってるのは、家族は慣れてしまっているらしい。
村長さんが記入した預かり書を見ると、氏名欄に「中津川トム」と認知症らしからぬ達筆で記入してある。
村長さんの名前は中村勉という。はたしてその中津川なる人物の名前がどこから出てきたのかさっぱりわからないが、とうとう自分の名前もわからなくなるほど病状は進んだらしい。しかし「トム」とは、ずいぶんハイカラな名前になったもんだ。
認知症患者のやっていることを否定すると、いらぬ怒りを招くこともあるらしいので、木澤はこの茶番に今しばらく付き合うことにした。
どうせこんな田舎の駐在は、事件も事故もほとんどないので、ほかにすることもない。
「それにして、喜びの落とし物なんで珍しいですね。初めてですよ。よく届けてくださいました」
木澤がそう言うと、村長さんはにっこり笑って、
「そうだね。僕も初めて拾ったよ。こんなに大事なものを、落とすうっかりさんもいるんだね。ねえ、駐在さん、何としても落とし主を見つけて、届けてあげてよね」と言った。
「ええ、署のほうに問い合わせて、落とした人の相談が来てないか、確認してみます」
木澤は預かり証の「物件・物品」の欄に、「喜び 1個」と記入した。
駐在所の表に軽自動車が停まると、中からエプロンを着けたままの壮年の女性が飛び出してきて、そのまま駐在所の中に入ってきた。
「どうも、すみません。ご迷惑をおかけします」
さきほど電話で話した村長さんの義理の娘がやってきたのだった。
「いえ、大したことではないですから」木澤は言った。
「お義父さん、いいかげんにしてください! 勝手にうろうろしないでくださって毎日言ってるでしょう」犬を叱りつけるかのように、彼女は言う。
村長さんは一気に困り果てたような表情になり、縮こまった。
「駐在さん、本当にすみません。施設に入れようという話もしてるんですが、どうしてもイヤだって言うもんだから……。今後はぜったいご迷惑をおかけしないようにしますから」そう言って何度も頭を下げた。
村長さんは引きずられるように軽自動車の後部座席に押し込まれ、帰って行った。
デスクの上には、書きかけの預かり書が残っている。
「喜びの落としものねぇ……。そりゃ、落とし主はわかいそうだね」
木澤は独り言を言った。
不意に、駐在所の出入口が開いた。
椅子に座ったまま顔を上げると、60代の女性が立っている。
「どうも、こんにちは」
そう言ったのは、村で唯一の小学校の校長だった。
「あ、校長先生。どうなさったんですか?」木澤は言った。
「先日は、お忙しいなか、本当にありがとうございました」
校長は木澤に向かって深く頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそ。お役に立てましたかどうか」
先週の水曜日、小学校一年生の社会科見学として、児童が駐在所に来た。過疎化の進む村では、一年生は十二人しか児童がいない。村に小学校以外の公的な機関と言えば、旧村役場と郵便局と駐在所と消防団の倉庫くらいしかないため、必然的に小学校の社会科見学として駐在所も選ばれることになる。
木澤は児童らに、駐在所の役割や交通安全等について説明した。児童らはみんな真面目に聞いていた。
「先日の社会科見学の感想を子供たちが書いたので、ぜひご覧になっていただこうと、持って参った次第でございます」
校長はそう言って、紙の束を木澤に手渡してきた。
「ありがとうございます」
木澤は手に受け取った紙に目を落とした。
きょうはちゅうざいしょのことをおしえてくれて、ありがとうございました。おまわりさんはかっこよかったです。ぼくは大きくなったら、ちゅうざいしょではたらくおまわりさんになります。
いかにも子供らしい、下手な字でそう書いてある。
せっかく警察官になるなら、田舎の駐在勤務なんかじゃなくて刑事や白バイ乗りみたいな花形を目指してくれよ。自虐的にそう思いながらも、木澤はうれしい気持ちを抑えきれずに、微笑みを顔に浮かべた。
最初の交番勤務以外ずっと刑事畑を歩んできた木澤にとって、仕事で子供に感謝されるということは初めての経験だった。
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