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「これ、落としもの」  村長さんが次にやってきたのは、約一か月後。  前と同じように、何も持っていない手を動かして、机の上に置く動作をした。 「村長さん、また勝手にうろうろしてたら叱られますよ」  しかし村長さんはまったく気に掛ける様子もなく、 「今度はね、『怒り』が落ちてたんだよ」と言った。  また目に見えない無形物を拾ってきたらしい。 「もういいから、家の近くまで送って行ってあげるから、お帰りくださいよ」  そう言って手を引っ張ろうとすると、村長さんはいきなり声を荒げて、 「落としものを届けにきたんだから、駐在さんはちゃんと対応しなきゃダメだろう! いつものように、預かり書出してよ。そうじゃないと、県の公安委員会に告げ口するぞ。僕は委員に知り合いがいるんだから!」  まったく、面倒くさい。  ハッタリとは思うが、今はボケていても仮にも村長を務めた人間なのだから、公安委員に知り合いがいてもおかしくはない。  訴えられたところでこれ以上左遷されようもない身としては痛くも痒くもないが、面倒ごとを避けるためには、大人しく言うことを聞いたほうがいいかもしれない。  木澤はデスクの椅子に座り、ファイルから拾得物件預かり書を出した。  村長さんはやはり「中津川トム」と署名をする。 「でも、『怒り』なんか拾って、どうするの。別に落としたなら落としたまんまでいいでしょう」預かり書に記入した後、木澤は言った。 「いいや、いかん。そりゃ人間、怒らないに越したことはないが、ときに怒りは大事なものになる。ちゃんと落とした人のもとに返してあげないといけない」 「そんなもんですかねぇ」  また村長さんの家に電話をして迎えに来てもらってもよかったのだが、それだときっと村長さんが義理の娘に叱られることになるだろうから、木澤は村長さんの手を引いて、歩いて家の近くまで連れて行った。 「それじゃあね。もう変なもの拾ってこないでくださいよ」  翌朝、七時過ぎ。 「すみませーん。駐在さん、いますか?」  そういう声が駐在所の居宅部分の中まで聞こえてきたので、木澤はパジャマのまま表に出た。  呼んでいたのは、兼業農家の前山さんだった。前山さんは、五十代の男性。 「どうしたんですか?」 「あの……、泥棒が入ったみたいで」 「え、本当ですか?」  駐在所からI警察署の刑事課に連絡すると、すぐに着替えて、原付に飛び乗ると現場に向かった。  前山さんの家はガソリンスタンドから山のほうへ向かう道沿いにあり、家のとなりの農地で複数のビニルハウスを所有している。  そのうちのひとつ、イチゴを育てているハウスに、夜中のうちに何者かが進入して、果実を根こそぎ盗んで行ったらしい。  現場に到着すると、先に帰って待っていた前山さんが、 「ここです、この中です」  そう言って、木澤をビニルハウスの中に入れようとしたが、 「ちょっと、待ってください。現場保存しないと。下足痕が取れるかもしれないから」  まもなくパトカーがやってきた。所轄の警察官はふたり組で、一人は所轄の四十代の巡査部長の男、もう一人は二十代の巡査の男だった。  巡査部長が前山さんに聞き取りをし、巡査が現場の写真を撮る。  前山さんは兼業のため、長く聞き取りをするわけにもいかず、あらめて被害届を出すということで、パトカー到着の後三十分ほどで仕事に出勤することになった。  木澤は前山さんのガックリと肩を落とした後ろ姿を見送った。  その後は、近所のお宅への聞き込みをしたが、有力な目撃証言などはない。おそらく犯行は夜中のことなので、不審人物に気づいた人も皆無だった。 「じゃあ、僕たちは帰りますので」巡査部長が言った。 「ちょっと、待てよ。これだけかよ」木澤は言った。  二人の警察官が、どういうことだ、と言わんばかりに首をかしげる。 「ハウスの中、ゲソコンが取れるかもしれないだろ。鑑識は呼べないか?」 「鑑識呼ぶんですか? たかが農作物の窃盗で」巡査部長が言う。 「たかがって何だ。堂々たる窃盗だろう」木澤は怒気を込めて言った。 「そんなこと言っても、盗まれたのは出荷してもせいぜい数万円程度のものでしょう。こんなのでいちいち大騒ぎしてりゃ、やってられませんよ」 「なんだ、その言い方! 農家の人はみんな大事に作物を育ててるんだよ。ちゃんと犯人探せよ!」木澤は地面を踏み鳴らして怒鳴った。 「警部補どの、勘違いしないでください。あなたは駐在員です。私に命令する立場ではございません」  そう言った巡査部長の目は、左遷された警部補を見下すような傲慢さに満ちていた。所轄にも木澤が本部から飛ばされた駐在員だという話は広まっているのだろう。  巡査部長は話を続ける。 「今のところ、単なる窃盗です。新たに証拠が出てきたり、近所で似たような被害が連続すればさらに捜査をすることになるでしょうが、目撃証言もない以上、やりようがないんですよ。所轄だって暇じゃないんです。こんなセコい事件にかまってられません」  そう言って、わざとらしいほど大げさに敬礼すると、パトカーは帰って行った。  捜査に投入できる人員が有限である以上、優先順位の高い事件に割り振られ、優先順位の低い事件は形式上の取り調べをして、以後はほとんど捜査しなくなるということは、木澤も知っている。自分も刑事部にいたときは、捜査本部で所轄の人間をほかの課や近隣の警察署からもかき集める立場だったのだ。  被害者を置き去りにするようなあの巡査部長の態度に立腹する一方、凶悪犯罪の捜査をしていた刑事のころの自分はどうだったろうか、と省みる。 「たかが窃盗」と思った過去が、たしかに自分にもあった。
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