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母は玄関先の蛇口で土で汚れた手を洗い流すと、立ち尽くしている私に「早く入りなさい」と言って玄関を開けてくれた。
「お母さん、あの、道におばあちゃんの着物の帯が落ちてたんだけど…」
「え、また?」
また、ということは今までにも何度かあったのだろう。
この着物の帯は祖父が死んでからずっと祖母の部屋に飾ってあった。それが何か私たちは聞かなかったが、きっと亡くなった祖父からもらったものなのだろう。
「おばあちゃんね、それ持って毎日散歩行くのよ。でもね、帯だけ置きっ放しでよく櫻井さんちの落し物でしょ?って届けられるの」
「大切なものだろうに…なんで…」
「それが認知症の始まりなのよ」
母の言葉があまりにも殺伐としていて私は少し驚いた。部屋に入ると相変わらず綺麗に整頓されていて、生活に変化は見られない。
「お父さんは?」
「農協の人達と温泉旅行よ。二泊三日で」
「お母さんだけにおばあちゃん任せて?」
「昔からそういう人だったじゃない。それに認知症かも、ってだけだからまだおばあちゃんは普通に生活できてるわよ」
父は昔から家のことには無頓着な男だった。祖母にも母にも特に優しくなく、寡黙であまり多くは語らない人だった。私も父との思い出はそう多くはない。
私は荷物を自分の部屋に置くと祖母を探した。彼女の部屋に行っても姿はなく、縁側にも居間にも居ない。仕方なく台所にいる母に声をかけると「多分お稲荷さんじゃない?」という返事が帰ってきた。
うちから少し歩いた場所に商売繁盛の稲荷神社がある。子供の頃は夏になるとそこで縁日やお祭りが行われていたが、今では集まる子供も少なくなり数年前に遂に祭りもなくなった。
私はハイヒールから持ってきたスニーカーに履き替えて祖母を探しに外を出た。山はまだらに赤くなっていて、終わりかけの紅葉がなんだか心を寂しくさせた。緩やかな坂を登り、神社の鳥居が見えて少し足を早める。昔はもっと真っ赤だった鳥居をくぐると小さく丸まった背中が見える。祖母は曲がった腰をさらに曲げて神社に手を合わせていた。
一体何を願っているのだろう。昔から祖母はよくここで手を合わせていた。そして決まって悲しそうな顔で帰ってくる。そんな時は子供ながらに私も声をかけれなかった。まるで祖母が知らない女の人の顔に見えてとても不思議だった。
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