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努力は簡単には報われないから努力なのだ。
自分は別に努力を賛美したいわけでも、努力している人を偉いとも思っちゃいない。努力することが当たり前で当然だとも思ってないないし、したくなければしなくていいと思う。たとえどんなことであれ、自分がしていることを「努力」だと意識すれば、つらくて苦しくてめんどくさくもなるものだ。
だから努力できる人ってのは才能がある人だと思うし、努力を努力だと思わないで努力できることも才能だと思っている。もちろんこれは努力できない人が凡人でなにも才能がないというわけではない。努力していない人でも努力が嫌いな人でも、何かしらの才能を持っている人はたくさんいる。
ここで述べていくことは私個人の「努力論」であり、「努力って報われるの?」という問題に対してつらつらと個人的な意見を書き綴っているだけである。そのため、「努力が報われる4つの方法!」なんて胡散臭い自己啓発本に書いてありそうなことは期待せず、あくまでもエッセイとして楽しんで読んでみてほしい。
現代社会は努力が賛美される社会だ。なにかしら努力していればそれだけで意思が強い人だと思われ、人間性が優れていると判断される。真面目な性格でなければ努力なんて継続できないという認識があるのだろう。
でも実際、努力してる人は自分が努力しているなんて思っちゃいないし、本人からすれば当たり前のことをしているだけに過ぎない。別に誰かから褒められたいわけでも認められたいわけでもないのだ。ただやりたいからやってるわけで、やらないと精神的に安定しないし気持ち悪いからやってるだけだ。たまに承認欲求にまみれた人間がSNSで自分の努力を見せびらかしているが、そういう人とは関わらないようにそっとスマホを閉じて自分たちの仕事に戻ろう。
極論を言ってしまえば、虫歯にならないように夜寝る前に歯磨きをすることも、普段歯磨きをしていない人からすれば努力に見えたりもするのだろう。筋トレやダイエットをしている人は自分の目的のためにやっているだけだが、やっていない人からすれば努力しているように見えるのと同じ具合だ。努力なんて大したことじゃない。やってる本人からすれば。
でも、世の中には努力をしていると自覚しながらも努力している人がいるのも事実である。「努力してる自分は偉い」と本気で思い込んでいるような連中だ。しかし不思議なことに、努力は努力だと思っているとなぜだか結果が伴わず、努力が徒労に終わってしまうことがとても多い。報われない努力というやつだ。
努力を努力だと思っていない人が結果を出し、努力を努力だと思ってやっている人は報われない。ここにどんな差があるんだろう?
もっともわかりやすい答えとしては、努力を努力だと思ってる人は「努力=作業」になっていて、ただ毎日「やらなきゃいけないこと」としてやっているからこそ結果が伴わないということ。作業は単純でルーティン化しやすくて、頭を使って考えたり試行錯誤する必要がない。ただ「やる」だけに集中しているのだ。
一方、努力を努力だと思わずにやっている人は、努力以上の何かしらの目的や目標に向かって努力しているため、自分の間違いや改善すべき点などの学びが毎日ある。学びがあるとこには成長があり、成長は結果と切っても切れない関係だ。ロミオとジュリエットのように。
何年か前に元AKBの高橋みなみがこんなことをテレビで言ってるのを見た。
「私は努力が必ず報われるということを、自分の身をもって証明します!」
それから数年後、プロ野球選手であるダルビッシュがこんなことを言ってるのを見た。
「努力は裏切りますよ。やり方や方向性が間違っていれば簡単に」
個人的には、高橋みなみのような希望的観測を持ち続けながら努力している人を応援したくなる気持ちがある。努力は報われる。努力はいつか実を結ぶ。努力は決して裏切らない。
でも現実はダルビッシュが言うように、努力は簡単に裏切るし、報われないことの方が多いし、徒労に終わることのほうが圧倒的に多い。これはただ盲目的に「努力さえしていればいい」と思ってるからこそ犯してしまう過ちなのだ。
なにかしらの目標に向かって努力するには、そこに向かうまでの明確な道標が必要である。道標へと誘う看板が間違っていれば、本人のやる気もモチベーションも空回りして努力が報われることはない。東京から北海道に行こうとしてるのに沖縄行きの飛行機に乗ってたどり着けるはずがないのと同じだ。何事も道標への看板が大事なのである。
努力をするときにはきちんと自分がどこに向かっているのか、努力の方向性は合っているのか、看板に書いてある道は本当に正しいのかを常に考える必要がある。でなければ、努力してる時間が丸ごと無駄になり、数年後に「もっと別なことに時間を費やせばよかった」と後悔してしまう。それもまた人生なので有りなのかもしれない。後悔なくして人生なしだ。
そして努力を報わせるには、目標達成に必要なことをトップダウン的に考えることが大事である。さらに、努力の途中で自分に必要だと思ったことを柔軟に取り入れるボトムアップ型の思考も大切だ。
よく努力は淡々と積み重ねることが大事だといわれるが、正しくは「努力が報われる方法を淡々と積み重ねること」である。間違った方法を厳密にやるよりも、正しい方法を大雑把にやるほうが結果はついてくるのだ。
ここまであれこれ個人的な努力論をとうとうと語ってきたが、もちろん自分の考えが正しいなんて思っちゃいないし、努力のやり方や方向性が正しくても報われないこともあるのが現実だ。現実はドライアイスよりも冷たいのだ。
だからこそ、誰かに言われて努力していたり、やりたくない努力はすべきではない。失敗したときにちゃんと自分で責任をとれる状態にしておくことが努力をする上での大前提なのだ。「やれ」と言われたことをやって失敗すれば、人間は自分の能力の低さやプライドを守るため必ず他人のせいにする。必ずだ。
努力は報われるとは限らない。でもそこに努力の楽しさがある。中身がわかってる宝箱を開けても喜びは少ないだろう。なにが入ってるかわからないからこそ、宝箱は宝箱なのだ。ただし、努力の方向性を間違えてパンドラの箱は決して開けちゃならない。もちろん玉手箱も。
はじめにも言ったように、自分は努力することが偉いともなんとも思っちゃいないし、努力なんてしなくても人は幸せに生きていけると思ってる。だけど、それと同時に努力は人生を豊かにしてくれるものだとも思ってる。現代は無駄な努力を賛美する盲目だらけのバーコードおじさんが多い社会だが、自分にとって必要な努力は方向性さえあっていれば、心の充実をもたらしてくれるだろう。
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