街中を散歩しながら考える世の中のモノの価値。

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街中を散歩しながら考える世の中のモノの価値。

お金の使い方は人それぞれ自由である。人が何にお金を使おうが他人が口出しすることではないし、するべきではない。相手と良好な関係や友情を保とうと思っているのであればなおさらだ。行き過ぎた干渉は人間関係を破壊する。これは現実に実体験済みである。 実際、今の世の中で他人を気にせずに生きることはとても難しい。親指でスマホをタップしてSNSを開くだけで、誰でも簡単に他人のプライベートや生活を覗くことができる。好きな人は今なにしてるのか、今日会った人はどんなことを呟いているのか、友達はどこに旅行に行ってどんなものを食べているのか。ツイッターやインスタを5分も徘徊すれば自分の周りの人たちの状況がすぐにわかる。テクノロジーって凄い。 でも、こうしたプライベートやライフスタイルの透明性は予期せぬ副作用を起こしてしまった。くだらない見栄の張り合いだ。 友達がブランド物のバックを持っていれば、自分もそれなりに高価なバックを持っていなければ見下された感じがして恥ずかしい。インスタに高くて美味しそうな料理がアップされていれば、自分もそうした物を食べてインスタにアップしたくなる。毒々しいカラフルなスイーツが流行れば買って写真を撮りたくなる。「タピる」という造語を使いたいがために、お腹をタプタプさせながらタピオカを飲み干す。 今の世の中は見栄というマウントの取り合いなのである。いかに見栄を張って自分が流行を敏感に察知しているか。いかに友達よりもリア充的な生活を送っているか。いかに周りよりも金回りがいいか。実際に他人よりも上に行く必要はなく、ただネットの世界で他人よりも自分をよく見せられればそれでいいのである。スマホという長方形の薄っぺらい画面の中で他人よりも優位性を保てればそれでハッピーなのだ。 今日電車に乗って街中まで散歩してふと思ったことがある。今や人は他人とコミュニケーションをとるよりも、スマホのフリック入力のほうが得意だ。五感や知覚を使って現実の世界を感じ取るよりも、小説や音楽、映画やゲーム、アニメやYoutubeといった作られた世界の中に自分を没入させるほうが好きだ。考えるよりも直感で行動すること、論理的アプローチよりも感情的アプローチ、先の楽しみよりも目先の快楽、作ることより壊すこと、歩くより座ることのほうが好きだ。 でもそれでいいのかもしれない。果てしない長い年月をかけて作られた文化や社会の中で、自分なりの喜びや幸せを見つけながら生きられるのであれば、無理になにかを変える必要はない。人生は自己満足だ。最後に笑って死ねるのであればそれが本望だ。 何に価値を置くのかは人生でもっとも大事な部分である。文字どおり、人生は時間の使い方で良し悪しが決まるのであって、生きた時間で人生の質が決まるわけではない。若い頃に殺人を犯して囚人として刑務所の中で一生を過ごす人間の人生と、40歳の若さで暗殺されたジョン・レノンの人生には天と地ほどの差がある。同じ人生でも質が違うのだ。人生は密度の濃さによって良し悪しが決まる。 お金も似たようなものであって、お金は稼いだ額ではなくて使い方によって良し悪しが決まる。一生懸命汗水流して稼いだお金と、オレオレ作業でおばあちゃんを騙して手に入れたお金には物質的には違いがないが、感情の質感としては大きな違いがある。稼いだお金を他人へのマウントのために湯水のごとく使うことと、自己投資や他人のため、社会のために使うことにも、物質的にはお金を消費してはいるが感情的な質感には大きな差がある。ここに物事の本質が隠れているのだ。 人はわからないことを単純化してしまう思考癖があるといわれているが、人生の生き方やお金の稼ぎ方、時間の使い方といったものをまとめてパッケージ化してしまうのは良くない。腐った肉とA5ランクの肉を混ぜ合わせて缶詰に詰めたからといってラベルに「A5ランク」と記載していいわけではないのだ。何事も質が大事であり、わからないからといって全部ごちゃまぜにして単純化してしまうのは人間の悪い癖だ。 世の中はもの凄いスピードでこれからも変わり続けていくのだろう。そうした世の中と今後長い年月をともに生きていくのであれば、目に見える変化に惑わされず、物事の奥底に眠る本質的な価値に目を向けてみるのがいいかもしれない。きっと今までなんとも思わなかったことでも、改めて目を凝らして見てみることで新しい気づきが得られるはずだ。 世界は一瞬一瞬変わっているのであり、川の流れのようにすべては流れ続ける。人生は諸行無常だ。永遠なんてどこにもない。だからこそ、人は永遠を求めて一瞬に懸けて生きることができるのだろう。
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