依存と執着を捨て去り、楽しみや幸せの先をイメージする。

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依存と執着を捨て去り、楽しみや幸せの先をイメージする。

生きていればできるだけ楽しいことや嬉しいこと、幸せを感じることをしたいと思うのが人間というものだ。誰も好き好んで不幸な人生を歩んだりしないだろうし、嫌な出来事やストレスを感じる出来事、悲しいことや苦しいことを感じずに生きていきたいと願っているはずだ。 ところが、人生はそんな人間の想いとは裏腹に、毎日障害物を私たちの前に投げつけ、壁にぶち当たってすっ転ぶ姿を見て楽しんでいる。人生は私たちが幸せになろうが不幸になろうが、悲しもうが楽しもうが知ったこっちゃなく、嬉しい出来事も嫌な出来事もすべての人に平等に与えているだけである。運の悪い人は不幸が連続することもあるけれど。 よく周りの人たちから「楽しみがないとやっていけない」「ストレス発散できるものや、癒しがないと頑張れない」という声を聞く。人はなにかをするためにはエネルギーが必要であり、マクドナルドや二郎系のラーメン、ステーキやタピオカといったカロリーだけでは頑張ることができないのだ。ああ、なんて燃費が悪い生き物なのだろう。 しかし、頑張るためや努力するためにカロリー以外のエネルギーが必要な状態というのは、はたして人間として正常だといえるのだろうか?人はどうしてタピオカを飲んでお腹をたぷたぷさせて満足することができないんだろうか? 結局のところ、人間という生き物には他人という存在が必要不可欠であり、他人に依存しなければほとんどの人は生きていくことができない。昔の時代にキリスト教やユダヤ教といった宗教が流行っていたのも、何かにすがって不安を和らげるため、何かに依存することで生きる希望を見出すために、宗教に白羽の矢が当たっただけである。 でも、現代には「いんたーねっと」という20世紀最大の発明があり、「すまーとふぉん」などというヒョロっとした長方形型の画面の上で親指をたくみにスライドさせることで、世界の裏側にいる人ともコミュニケーションをとることができる。もちろん、この文章を書いているのも、「すまほ」の画面の上で吊りそうになりながらも親指をひたすらスライドさせるという芸当が生み出しているものである。 現代には過去と比べて依存する対象がそこら中に溢れている。友達や恋人、家族や職場仲間といった人間関係や、音楽やスポーツ、ゲームやYouTubeといった娯楽、釣りや散歩、登山やスキーといった趣味まで、現代人は依存しようと思えば、興味があるものであればいつでも好きに依存することができる。とりわけ、依存心がもっとも強く発揮されるのは恋人に対してであるのは言うまでもないだろう。 そうした依存と執着にまみれた人生を歩んでいると、前述したとおり、さまざまな色に着色されたサーティーワンのアイスや砂糖がたっぷり入ったふわふわのパンケーキ、見るからに美味しそうなA5ランクのステーキや和牛カツサンドといった食べ物のエネルギーだけでは生きていくことができなくなる。不思議なことに、人は常に依存する対象を求めるものだが、カロリーだけに依存して生きていくことはできないようだ。 楽しみを期待しながら日々を過ごすのは、自分の中に依存心が強く現れている証だ。幸せになりたいと強く願うのは、依存できる他人の存在を求めている証だ。勘違いしてほしくないのだが、これは決して依存することが悪いと言っているわけではなく、行動の目的において、楽しみや幸せ、依存や執着を超えた先を求めることが大事なのではないかと言っているのだ。 自分の行動のすべてが依存心や執着心から来ていれば、行動自体が腐敗したものとなり、自分でもなんでそんなことをしているのかがわからなくなる。楽しみや幸せを目的に行動していたとしても、いずれそれが満たされると行動のインセンティブがなくなり、お金を目的にして行動するという濁ったドロ沼へと進んでしまう。 大事なのは楽しさや幸せのその先をイメージすることであり、究極的には、意味のないことを意味を求めずに無意味の価値観の世界に没入するのがいい。芸術やアートには意味があってはいけない。詩の意味を詩人に説明させてはいけない。行動というのは、意味がないことにこそ意味があるのだ。 最近はSNSやメディアで「Just do it!(`・ω・´)キリッ」「Just do it!(`・ω・´)キリッ」と閑古鳥のように叫んでいるバカが多いが、無駄なことの中にこそ宝があること。ガラクタの価値がわからない人はガラクタ以下であることを肝に銘じ、世間の風潮に惑わされずに好きなように生きていってほしいと思う。
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