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現代社会の歪んだ倫理と道徳。
現代社会の中で倫理と言えば堅苦しい印象を受けるのはなぜだろうか。倫理や道徳といった概念は古代から大切にされてきた人間の行動規範であるにも関わらず、多くの人は倫理や道徳を声高に叫ぶ人を嫌悪する。
「細かいことばっか気にするな」「法律に触れてないから問題ない」。倫理や道徳について考えたこともないような輩は、自分の都合のいいように法律を持ち出し、「自分の行動は法律違反ではない。だからなんの問題もない」と言い聞かせている。その最たる例がSNSに蔓延る情弱ビジネスというやつだ。
情弱ビジネスはパッと見聞きしただけでは、その悪質性には中々気づけない。人はみんな自分が信じたいことを信じ、疑いたいことのみ疑い、主観的な目線でしか物事を判断することができない。「お金が儲かる」という何かしらのビジネスの話を聞いて盲目的に飛びつくのではなく、そこで一呼吸おいて客観的かつ、倫理と道徳に照らし合わせて考えることができれば、現代の詐欺被害者の数も減るのではないかと思う。
倫理や道徳というのは、学校に通って教室の中で眠たくなるような話を聞いて身につけるものではない。もちろん、「今さら聞けない!大人の教養」といった類の本を読んでも、身につくのは古代の人たちが守っていた行動規範ではなく、現代の法律を自分の都合のいいように解釈する悪知恵だけだろう。
人間はみな社会的な動物であることは誰もが知っている。他人と一切コミュニケーションをとらずにいれば、一週間後には精神疾患の世界へようこそだ。人間は社会的な動物であるがゆえに、他人とコミュニケーションをとれななければ精神が病んでしまうのだ。
でも、だからといって倫理や道徳を無視した人間関係を構築していいわけではない。誰もが自分のことだけ考え、自分の利益のみを考えて行動するのであれば、社会や文化は一気に崩壊し、現代は混沌へと迷い込んでしまうだろう。幸運なことに、自分のことだけを考える人間は、歴史的に見てもほとんどの人が追放や何らかの罰を受けている。
道徳についてはカントやアダム・スミスの時代から散々議論されており、カントは定言命法という方法で普遍的な道徳観を持って行動せよと説いた。アダム・スミスは、人間は遠くで何万人の子どもや大人たちが餓死で死んでいく事実よりも、机に足の小指をぶつけたときのほうが怒りを覚えると述べている。頭では道徳が大事だと思ってはいても、現実では道徳の意味を真剣に考えず、他人よりも自分のことで精一杯になっている。
だからこそ、現代では倫理や道徳が蔑ろにされた人間関係があちらこちらに構築され、悪知恵のはたらく悪徳インフルエンサーや情弱ビジネスを営む人たちに騙される人が多いのだ。自分は決して「騙される方が悪い」などというつもりはない。どんな状況であっても騙す方が悪いに決まっている。これは自分の信念でもある。
現代で倫理的かつ道徳的な生活を送ることはとても難しい。社会全体が倫理や道徳を唱える人を疎ましく思っているからだ。でも、人間から倫理や道徳を一切排除してしまったらどうなるだろう?あなたはそんな世界で生きていきたいと思うだろうか?
日本でもまだかろうじて倫理や道徳が多くの人たちの心の奥底に残っている。日本がそれなりに豊かで社会と福祉の安定性を保っているのがその証拠だ。倫理や道徳のない人間がつくる社会は崩壊する運命にある。必ずだ。
自分だけが倫理や道徳を唱えてもなにも変わらないと思うかもしれない。しかし、それは倫理や道徳を蔑ろにしていい理由にはならない。たとえ99人がNoと言っていたとしても、99人が倫理や道徳を疎ましく思い、他人を犠牲にして自分のことだけ考えてるのであれば、自分は1人の側になる選択肢を選ぶだろう。周りにうまく馴染む柔軟性は大事だが、なにがあっても魂だけは汚してはならないのだ。
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