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週末の浮かれた街の雰囲気と、足早に過ぎ去る大人たちの群れが好きだ。
一週間が過ぎ去ろうとする金曜や土曜の夜の街の高揚感がたまらなく好きだ。足早に過ぎ去る人々、待ち合わせ場所へと向かう浮かれた足取り、抑えきれないワクワクした表情と、疲労を忘れたようにハイになった心身から感じられる全能感。
一週間という時間のしがらみを超え、一時の自由を手にした人々の幸せそうな笑顔。そこに人間の本当の幸福があるのだと悟る。きっと幸せは掴むものでも手にするものでも、なるものでもない。ただ気づくものなのだ。
何気ない日常生活の中に潜む誰もが見逃しがちな幸福の源泉をいかに見つけることができるか。視線は右から左へと即座に切り替わっていくが、幸福はどこにも行かずにそこにある。幸せを感じられないのは視覚が幸せの形を認識できていないからだ。
いつも通りの通勤ルートの中にも、よく目を凝らせば何気ない幸せが落ちていることに気づく。太陽が照らす草々から感じる人間とは異なる生命力。頭の上から聞こえる小鳥のさえずりやカラスの鳴き声。道端に咲くたんぽぽや華々しく散っていく花びらたち。小川の流れる音とどこまでも広がる青空。
なんでもないようなことでもアートスティックに捉えることで、平凡が幸せに、無駄が充実へと変わっていく。ガラクタの価値がわからないヤツこそガラクタなのだ。
人は目には見えない抽象的なものを具体的に捉えることが苦手だ。具体的なものを抽象的に変換することは得意でも、はじめから目に見えていないものについて様々な考えを巡らすのが苦手なのだ。だけどそこに人間の創造力の源泉がある。
ニーチェは芸術的なおこないに没頭することこそ、不合理と矛盾に溢れる世の中で強く生きていく術だと述べた。詩を書くことや写真を撮ること、絵を描くことやモノづくりをすることなど、なにを芸術と捉え、なにをアートスティックに考えるかは人それぞれ違うだろう。
その中で自分なりのアートを発見し、アートをアート以上のものとして昇華させるため日々死にものぐるいで没頭し、虚無感と空虚感に包まれながらも絶望に屈することなくただひたすら好きなことに没頭して自分なりのアートの感性を磨いていく。それが生きるということだ。
マニュアル化された単純で何の迷いもない作業感的な日常を生きた先にたどり着くのはどこなのだろう?狂ったように狂気の沙汰とさえ思えるような芸術的没頭の中で生きる人たちと、ルーティン生活と現状維持に時間を費やす人たちとの差異は人生のどの段階で顕在化されるのだろう?
SNS社会は一億総批評家時代の到来のもたらし、芸術に没頭するのではなく芸術を批判する人たちで溢れ返っている。なにも生み出すことなく、ただ他人が生み出した芸術に対して批判的な意見を飛ばし、匿名という安全地帯から石ころを投げつけてジャイアンのように威張り散らす人が跋扈するのが現代だ。そう、現代はジャイアニズム的イデオロギーに酔っているのだ。
大人ジャイアンは空の広さに思いを馳せることはしない。人生について考えたことがないからだ。大人ジャイアンは芸術的行為に没頭することはない。つくるより批評して壊す方が楽だからだ。大人ジャイアンは決して身近な幸せには気づかない。他人を貶してドヤ顔をすることが唯一の幸せだからだ。
一週間という短い周期を何度も何度も死ぬまで繰り返していくのが人生だ。週末の浮かれた足取りを何度も何度も滑らせていくのが日常だ。そしてたまにコケて頭を打って死にたいと嘆く精神性こそ人間だ。
痛みこそが自分が現実の世界に生きているのだと実感させる。疲労感の先にある充実感こそが人生をモノクロから色づく世界観へと塗り替えてくれる。そして芸術こそ人生という儚くも壮大な夢から目覚めさせることなく、夢と希望を死ぬまで追い続ける没頭性を人間に提供する抽象的かつ依存性溢れるおこないである。
海は潜れば潜るほど深くなる。芸術という海に飲み込まれたが最後、足掻けば足掻くほど現実との境目が消えていき、いつしか自分の存在さえも無となる。でもそれでいいのだ。それが人生なのだ。
自分の芸術的な感性を無駄にしてはならない。日常をアートスティックに捉える感性が人生そのものをアートへと昇華させてくれるのだ。
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