みんな大好き福沢諭吉。

1/1
前へ
/24ページ
次へ

みんな大好き福沢諭吉。

世の中はお金がすべてかどうかは度々議論されてきた話題だ。お金をたくさん所有していることは幸せか否か、お金をたくさん稼ぐことは善か悪か、そんなことは耳にタコができるくらいあらゆる場で議論されてきた。 そのままの意味でお金を考えると、お金がなきゃ食べる物も服も買えないし住むところも手にできない。つまり、お金がなきゃ生活が成り立たないのが現代だ。 でもそれはお金を物質的なものとして社会の枠組みの中に組み込んだときの話であって、人間としてお金が必要なのかどうかとは関係がない。生活のためではなく、人間にお金は必要なのかどうか考えたことがある人は少ないはずだ。 そもそも生活にお金が必要でも、お金がなきゃ生きられないわけじゃない。生活することと生きることはまったく別の話だ。生活は生きる活動と書くが、生きるはそのままただ生を意味している。ここには活動は関係ない。 「生きるの定義は〜」なんて哲学的なことをここで語るつもりはない。でも、生きることと生活することを分けて考えることはとても大切だ。お金に振り回されないようにするためにも。 人はなにか行動するときは、お金を稼げるか否かで判断することが結構ある。お金が発生しない行動はする価値がない、お金を稼げない行動は無意味で時間の無駄だとさえ考えてる人も多い。ビジネス気取りの人は大方「時間=お金」だと思ってる。 現代は拝金主義時代だ。モノが増えたことにより、モノを多く手にすることが幸せの指針となり、モノを買うことができるお金がイエス・キリストのように神聖化されているのだ。でもこれは悪いことじゃない。人類の進化の証だ。 モノが増えれば安心感が増える、高価なものを手にすれば幸福感を感じる、周りの人よりいい生活をしていれば充実感が伴う。そしてお金がたくさんあれば将来の不安を緩和できる。 人類が過去から未来へと歩みを進めていくうちに、社会が生まれ文化が生まれ国家が生まれた。それに伴って通貨が生まれ、技術が進化し、科学が誕生し、プライベートという概念が生まれた。 次第に人々はお金さえ手にすれば何でもできる、幸せも買える、人生も充実すると思い込んでいく。それが行くところまで行き着いたのが現代だ。でも何度も言う、これは悪いことじゃない。我々の進化の結晶だ。 なにかしらの文脈を語るときには、お金が最大の基準となっていることが多く、お金が暗黙の前提として人々の間で認識され、口にせずともお金を中心に会話が展開されていく。現代はお金を持っていない人には興味がないのだ。いや、お金があっても興味はないだろう。社会という魔物はお金を吸い込んで適切な場所に吐き出す。搾取と投資だ。 思いのままに言葉を走らせていると何を言おうとしていたのかわからなくなってくる。でもそれでいい。それがいい。ポエムは右往左往あちらこちらに文脈が飛んで話題が逸れてどこかへ流れ去っていくもの。ポエムは永遠の一瞬の中にあるのだ。 おそらくここまで読んでる人は「こいつ何言ってんだ?」と思ってるだろう。これぞみんな大好き多様性。個性。人間らしさである。 とりあえずここで伝えたかったことは、お金と人生と生活と幸せは全部別だよってこと。同質のものだけど同じものじゃない。気体と液体ぐらいの差がある。 自分の行動について考えるときは、自分が何を基準点として考えれば選択を間違えることもないはずだ。お金なんて大したもんじゃない。大切なことは自分の中にほかにあるだろう。それを探して見つけて抱いて生きようか。
/24ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加