もったいないが生み出す時間の無駄遣い、人生の無駄遣い、命の無駄遣い。

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もったいないが生み出す時間の無駄遣い、人生の無駄遣い、命の無駄遣い。

「もったいない」という言葉は日本語にしかないらしい。何かをぞんざいに扱ったり無駄に消費したり適当に捨てたりすれば人は脊髄反射的に「もったいない」という言葉を使う。 でも何がもったいないか本当に理解しているのだろうか?何もかも大事に扱うもったいおばさんのように、自分が手にしているものすべてに対してもったいないから大事にしようと言うのは簡単だが、それでは物事の本質が一切見えてこないのではないか。 たとえば、食事を残すことに対してもったいないという言葉を使う人は、食事を残すことに対してもったいないと言っているのか、それとも食事そのものに対してもったいないと言っているのか、本当に理解しているのだろうか? これはお金や時間に対しても言えることであり、特に時間は人生の中で有限なものとして語られることが多く、「時間を大切に」「一分一秒も無駄にするな」という言葉を耳にしたことがある人も多いはずだ。 ベッドの上でダラダラと過ごしながら一日を終えようとしていると、時間を無駄に消費してもったいないという感覚が襲ってくる。もっとなにか楽しいことをしたほうがいいのではないか。時間を有益に使って意味のあることをすべきではないのか。人はそんなことを無意識のうちに考えてしまう。 もったいないという言葉の意味について真剣に考えたこともないのにも関わらず、人はもったいないという言葉を脊髄反射的に使用する。友情や愛情といった言葉も同様であり、子どもの頃に知らずうちに身につけた言葉の概念をそのまま大人になっても持ち続け、事あるごとに友情がどうだ愛情がどうだと綺麗ごとを語りだす。実はそんな連中が私は嫌いだ。 少し話しただけで友達気取りな人、一度会っただけで知り合い認定する人、一緒に食事しただけで私のことを理解したような気になっている人、友情を一緒に時間を潰すことができる人のことだと思っている人、愛情をセックスするための口実として軽々しく口にする人、そんな連中のことが私は大嫌いだ。 言葉は人に何かを伝えるために生み出されたものだが、現代ではコミュニケーションツールとしての価値はなくなっていくばかりだ。誰かに何か文句を言いたかったり大事なことを伝えようとするときでも、今ではスマホの上で親指を上下左右させるだけでいくらでも相手に自分の意図を伝えることができる。パソコンの前でキーボードをカチャカチャ叩いて思いのままにこれを書いている今の自分も、言葉というツールを一切口にすることなくの頭の中にある考えを言葉にして書き記すことができている。 未来的に社会の中から言語が消え、人間の口元も退化してすべてテキストや伝達物質でやり取りする未来が訪れる可能性もゼロではない。しかし、それは遠い未来の話でここではあまり関係がない。 つまり何が言いたいかというと、日本語には「もったいない」という概念の言葉があるが、言葉について深く考えたことがない連中が「もったいない」と口々に語ることほど滑稽なことはないということだ。 もったいないしかり友情しかり愛情しかり。人は自分が使っている言葉の本質的な意味について思考したりはしない。それよりもソファの上でYouTubeを見ながらゲラゲラ笑って友達とバカなことをスマホの上で親指をセカセカさせながら語り合いたいのだ。 時間は有限であり、有限のものを無駄に消費しているときに人はもったいないという言葉を使う。時間の無駄遣い、人生の無駄遣い、命の無駄遣い、すべて有限で時とともに朽ちていくものばかりだ。 その中で自分にできることは、できる限りもったいないという言葉を使うことなく、あるいはもったいないという言葉を使うことすら忘れるぐらいに目の前のことに没頭しながら生きることだけだ。 そうして生きている中で感じる虚無感と空虚感と寂寥感と孤独感を踏みにじりながらも、絶望を希望に、悲観を楽観に変えるべく全力で一日一日を生き抜いていく。それが人生であり、私の命の使い方であり、時間を殺さずに生かす唯一の方法なのだと悟る。
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