考えないことを考える矛盾の中で人とのつながりを考える。

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考えないことを考える矛盾の中で人とのつながりを考える。

余計なことを一切考えずに生きられたらどれだけ楽なのだろうかと常日頃考えながら生きている。いかに意味のないことを考えないようできるかを考える矛盾の中で生きていて、考えないことを考えることに疲れ果てていつも眠りにつく。 人間の脳は過去5万年前からほとんど変わっていないらしい。なにが起きたかはわからないが、過去に人間の脳には大きな知能革命が起こり、大脳皮質が急激に進化することで我々の祖先であるホモ人類はさまざまな社会や文化、技術を生み出してきた。 それが令和という現代をつくり出すにいたり、今では距離を超越したコミュニケーションをとることも可能となった。これは人類における最大の恩恵だといえるだろう、だが、距離は近くなったように思えて実は他人との距離は開く一方なのが事実だ。 昔は小さなコミュニティがあちらこちらに存在し、どのコミュニティも人々の間で助け合いながら支えあいながら生きていたものだが、現代では隣の家に醤油を借りることさえもない世の中だ。散歩していてまったく知らない人に話しかければ変質者だと思われる世の中だ。あぁ、なんて生きづらいんだろうか。 社会は昔に比べて圧倒的に豊かになっているのは間違いない。人生を豊かにしてくれるものもあちこちに溢れかえり、好きなものを食べて好きなところに行き好きな人と好きなように時間を過ごすことができる。わざわざ食料を探しに命の危険を顧みて狩りをする必要はないのだ。 でも豊かさと幸せはイコールではないし、利便性に溢れた世の中が人生を豊かにしてくれるものでもない。逆説的だが、社会が豊かになればなるほど人々との距離は遠くなっていき、次第に他人を疑うようになっていく。 信用が欠如した社会は崩壊の運命にあるのが事実であり、人々との距離が広くなって共同性を欠いた文化は隣人との争いを生み出す。その争いのスケールをでかくしたものが戦争だ。 今では核爆弾発射のスイッチをポチっと押すだけで文字どおり世界を崩壊させることができる。私もこれを読んでるあなたも一瞬にして消えてなくなるのだ。命は儚い。それが真実。 冒頭で考えなくていいことを考えないように考える矛盾について述べたが、こうしたことを考えることも本当は考えなくていいことを考えている状態であって、昨日も今日も私は矛盾の中で生きている。自己矛盾という深い闇の中で。 そんな闇を照らすのは自分の中に潜む情熱という炎だけであり、「あなたにとっての恐怖はなんですか?」と聞かれれば「絶望と自己否定を覆すほどの情熱が消えてしまうこと」と答えるだろう。そう、私は中二病なのだ。 考えたくもないことを考え、頭の中がバーストしそうなほど悩み、迷い、苦しみ、悲しみ、悲観にくれる。それでも私は今日も生きている。明日も生きる。きっと明後日も。 禅の世界では無心になることがなによりも心の充足を満たすものだといわれている。無心とは心がないことではなく、余計なものを心に入れないことであり、つまり、考えなくていいことを考えないことだ。 でも、考えなくていいことを考えることも無心ではないし、無心を目指していること自体そもそも無心ではないのだから、無心の状態といったものはきっとどこにも存在しないのではないかとも思う。唯一無心になれるのは死が訪れたときだけだ。 考えることは人間にとって唯一の武器であり、ライオンには牙が、クマには爪が、チーターには脚とう武器がある。人間の最大の武器は脳だ。生き抜くために最大限活用しなければいけないのは脳なのだ。 だから私は今日も明日も明後日も、考えることをやめないし手を止めないし生きることもやめない。脳が機能停止して働からなくなるまで考え続ける。それがきっと私の生きる道で人生なのだと思う。
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