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虎昌と義信
「父を殺す」
その言葉に虎昌は耳を疑った。
淡々とした口調で言った放ったのは武田信玄の嫡男、武田義信である。
義信が虎昌の屋敷にわざわざ訪れたのは何かあるとは思っていたが、まさかこのようなことを言うためとは。義信の表情を覗くと、恐ろしい言動とは裏腹に希望に満ちた顔をしていた。絵に書いたような好青年だ。
「今更気付いたのだ。父も祖父を追放して頭首の座に着いた。同じことをされても文句は言えんはずだ。じいも分かるであろう?」
じいとは虎昌のことである。虎昌は義信の幼少期から武術、軍学、作法を叩きこんできた。そのかいあって義信は立派な男になったのだ。分かるであろうと言われても分かるはずがない。
「義信様。御館様に楯突くなど言語道断。お考えを改め直した方が良いかと思います。甲斐の国を、いや、日の本の国を治めるのは御館様をおいて他にはおりません」
虎昌は義信の目をきっと睨み付けた。しかし、一切怯む様子がない。流石、武田信玄公の嫡男と言っていい。
虎昌は武田家臣団随一の将である。猛虎のような姿を見たものは敵味方ともに震え上がるが、義信はまるで猫を前にするかのように微笑んだ。
「安心せい。わしがおるではないか。それにわしの決意は鋼より固い」
虎昌は義信の目を見ていると、反論できなくなった。好きなのである。虎昌にとってこの青年は息子のようなものであり、希望そのものだった。
「のう、じい。わしが頼りないか?」
「滅相もない」
義信の武勇は虎昌にも劣らない。川中島の戦いでは、上杉陣に突撃して首級を上げ、謙信にも肉薄した。援軍に阻まれ引き返しはしたものの、その勇敢さを天下にしらしめたのだ。
頼りないはずがない。希望の星なのだ。
「父のやり方は古い。このままでは武田はいずれ滅ぶ。次はわしが武田を率いる番だ。良いな?」
虎昌は言葉は返さず平伏した。
ーー本当にやるのか?
武田信玄を殺す。虎昌の胸中はかつてないほどに複雑だった。
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