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金曜日の猫と魔女
明と暗が互いの存在を知らしめるように境目を壊す時刻。
永山ひまりは、自転車に跨ったまま、山の上にある広間から境界の黄色を眺めていた。
ひまりは、人間が活動する昼と人間が休まる夜の間には、人に知られてはならない世界があるのだと信じている。
それは昔から。
きっと、誰も知らないだけで、限りなく遠いところに私たちのような生命体がいるのかもしれない。
あの境目は、消失点。
「消失点」という言葉は、隣の席に座る、漫画家志望のひまりのクラスメイトが教えてくれた。
ひまりの空想だと片付けられるそれは、ひまりが「消失点」という言葉を知ってしまったがために、ひまりの中では、また現実に近付いた。
ひまりが住んでいる世界を一つの空間だとするのなら、あの漫画家志望のクラスメイトが平行線で結んでみせた点は、名前をつけて、理論でこじつけた概念でしかない。
「浪漫があるよねえ」
言葉を教えてくれたクラスメイトにお礼を言い、ひまりは“世界”を語った。
「ふうん、ひまちゃん変わってるね」
彼女も空想を描き、夢を与えることを生業にしようとしているというのに、興味がなさそうに返されてしまう。
漸く同士に出会えたと思ったのに……!
ひまりは、肩をガックシ落とすことになった。
それでも、ひまりはもう一つの世界が自身にあることは、素晴らしいことだと思うのだ。
世界が一つだなんて、狭すぎる。
そのため、ひまりは、よく変わっていると言われる。
――部活が終わったと同時に、自転車に飛び乗れば、この時刻に間に合う。
ここはひまりのお気に入りの場所であった。
団地をかき分けた道なりに坂がある。右足と左足、交互に1日の疲れを込めながら、ペダルを重く漕ぐのだ。
ひまりは、体がくたくたの中、登る坂道でさえ、愛おしかった。
今日はいつもと違うことが一つだけある。ひまりは肩からケースかけて、このひと時を楽しんでいた。
背丈が違う家がキノコのようにニョキニョキ伸び、色とりどりの笠をかぶっている。耳を澄ませば遠くで街の声が聞こえる。
街を一望でき、独り占めできる見晴らしが良い広間。そのためだけに用意されたベンチに、ひまりはケースを広げた。
中から取り出した銀色の楽器を世界に向けて、透かして見る。黄色を映し、まるで、“世界”もここに在るような気さえしてくる。
鞄から曲名の隣に『TP 1st』と、書かれた楽譜を取り出し、広げる。
ひまりは、自身の譜面台を持っていないため、開いた楽器ケースの上に楽譜を置き、それが風に飛ばされぬよう、チューナーを重石がわりに置いた。
軽くストレッチをして、ブレスコントロールを行い、ひまりの薄い唇にピタリとはまるマウスピースを吹く。
ひまりの胸は、トクトクと鼓動をいつもよりも早く打ち、息も震えていた。
ひまりは、今日、あの世界に、こちらの音を聴かせるつもりで来たのだ。
ひまりは、ステージで、ソロを一人で吹かされるぐらいには緊張していた。
そして、マウスピースを吹きながら、トランペットの先にそれをつける。
上唇と下唇の振動をただ拾って奏でいた真鍮が、徐々にふっと、柔らかい音に変わる。
カチリとマウスピースが楽器に到達したところで、パァ――……と、伸びやかな音が広がった。
Fの音階。
ひまりは中音域が得意だが、今回は、1stを任されることになる。
「金曜日の猫と魔女」という曲だ。
この曲にはトランペット1stが目立つ、トロンボーン、ホルン、クラリネットだけの小編成のフレーズがある。
チューナーにテンポを設定して、ゆっくり吹いてみる。
届くかな。
青青とほんのり顔を出し始めた木々も、精一杯葉を擦り合わせてひまりの演奏に参加する。冷たさを残した麗かな風が、ひまりの頬を柔らかく包む。
ひまりの日に当たるとほんのり紅く灯る長髪が靡いた。
まるで、“世界”がひまりを歓迎しているかのようだった。
ひまりは、なんだか嬉しくなってしまい、何度も何度もそのフレーズを吹いた。
気付けば、間が終わる。
夜が暗がりを作ろうとしている。携帯を開くと母親に叱られる時間だった。
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