いつか虚像が溶けても

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 「朝だよ。ほら起きて」 優しい声と共に肩を揺らされた振動で、僕は夢の世界から帰ってくる。  少し顔をしかめながら薄目を開けると、淡いモスグリーンの瞳と目が合った。  「おはよう。パパ」 僕が笑顔でそう言うと 「おはよう。ママが今日はホットケーキを焼いてくれたらしいよ。早く食べに行こう」 とパパも笑って僕の頭を撫でた。 「ホントに?」 僕は嬉しくなって、パパと手を繋いで一階に降りる。  足音が聞こえたのか、キッチンからいい匂いを連れて、ママが顔を出した。 「おはよう。ママ」 ハグをしながら僕が言うと 「おはよう。丁度出来たところよ」 とママも抱きしめ返してくれた。  ダイニングテーブルには三人分のホットケーキが用意されていた。ママの料理は全部美味しいけど、とりわけホットケーキは生地から手作りする、ママの得意料理だ。  僕らは揃って席に着くと、いつものように目を瞑って祈るように手を組む。僕は今も昔も宗教なんて分かんないけど、パパとママがやってるから真似している。  「神に感謝して」 そうパパが言うと、それから数分間神に祈りを捧げる。僕はこの度に同じことを考え、願っている。  第二の人生ってよく言うじゃん?退職した後とかによく使われるから、僕の場合もまだまだ先のことだと数年前は思ってた。でも実際、僕の第一の人生は8年で終わっちゃった。  もう三年前になる。ほとんど覚えてないんだけど、目を開けたら、見知らぬ男女が立っていた。そして、その二人が言ったんだ。 「君の人生は一旦終わった。これからどうしたい?」 って。その時、僕は悟ったんだ。あぁ、僕死んだんだって。いや、物理的な物じゃなくて、昨日まで当たり前だった日常は亡くなっちゃったんだって。  だから僕は 「違う人になる」 と答えた。なんであんなことを言ったか分からない。でも、それしか返し方が見つからなかった。  そしたら、新しいパパとママが出来た。僕は文字の書き方から仕草、全てを別人になるよう教えられた。傷も残ってないけど、整形までした。文字通り、第二の人生を歩むために。  ちょっとずつ大人になってきて、文字が読めるようになると、分かってきた。僕は誘拐され、親は殺されたことを。その犯人が、パパとママだということも。僕は…元の僕はまだ行方不明のまま、コールドケースと呼ばれ、迷宮入りになっているこの事件は、そこそこ有名だった。  結局今も、これから先どうなるか分からない。愛情たっぷりに育てられてるけど、最終的に元親と同じ末路を辿るかもしれないし、アメリカは時効がないから、いつか証拠が見つかってパパとママが捕まるかもしれない。明日殺される可能性だってある。  でも別に怖くないよ。だって、前も地獄だったから。むしろ今の方が幸せだと思ってる。僕の感覚が麻痺しているだけかもしれないけど。  コールドケースのコールドって、意味は色々あるらしい。正解から遠いだとか、死んだだとか。その一つとして、興味が失われたって意味がある。僕は失われたままでいいと思ってる。それでこの虚像が続くのなら、僕はこの嘘に溺れていたい。この嘘しかない日常で、笑っていたい。  だけど同時に、いつか終わりが来ることもわかってるつもり。だから僕は、いつか来るその日のために祈るんだ。  いつかこの虚像が溶けても、この日常を愛した事実だけは溶けて亡くなってしまわないように。  神様なんて信じないし、多分神様に嫌われてる僕だけど、この祈りの時間だけは、そう願い続けている。  僕はそっと、目を開けた。ホットケーキの甘い匂いと、二人の笑顔。今日という日を覚えておくために。
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