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「しまった……」
時刻はまもなく午前四時。初夏とはいえ、まだ辺りは薄暗かった。
出港前に一服……とタバコを咥えたところで寛治は自らの失態に気づいた。準備していた弁当を自宅に置き忘れて来たのだ。今から戻っていては間に合わない。
仕方がない、今日は保存用に置いてある缶詰でも抓むかと腰を上げたところで、明らかにスピードを出した乗用車が港に滑り込んできた。ひなびた埠頭には似つかわしくない外国産の乗用車は、寛治の目の前でピタリと停まった。
「寛治くん! よかった間に合って」
「智希、おまえなんで……」
これまた場違いな男が颯爽と車から降り立った。
「酷いですよ。起こしてって言ったのに」
「いや、おまえ今日から出張でどっか海外だって言ってたし……」
ごにょごにょと言い訳に小さくなった声が波にかき消される。
「だから、ちょっとでも寛治くんの顔が見たいって変ですか?」
「変わってことは、けど、その……夕べも遅かったし……」
寝不足では移動もしんどいだろうと、つい目を逸らしてしまう。
そう、昨夜は十時を過ぎたころに突然訪ねてきて、明日から出張だからと泊まりをねだってきたのだ。当然のように身体を絡めて、狭い布団で眠りについたのは日付も変わったころで――。
「僕はまだ若いのでお気遣いなく!」
偉そうに胸を張った智希に思わず拗ねた目を向けてしまう。
智希は寛治の甥っ子の親友だ。甥っ子の母親は三歳上の姉で、つまりは寛治と智希は親子ほどの年齢差がある。それが今でも後ろめたい。
「それより、寛治くん忘れ物」
にゅっと差し出されたのは、置き忘れに気づいた弁当の袋と、途中で寄ってきたのかコンビニの袋が添えられていた。中には菓子パンとペットボトルのジュースが入っている。甘党の寛治が、摂生のためもあって控えているものばかりだ。
フッと頬が緩む。
「智希、ちょっとメシ付き合えよ」
「けど、もう出航の時間じゃ」
「ちょっとくらいいいさ」
こんなオッサンに少しでも会いたかったなんて言ってくれる智希の希望を叶えてやるくらいどうということはない。起こせずに一人で出てきたのは、結局は負い目があるからだけなのだ。
本音はもっと――。
「しかも、このカレーパンはおまえのだろ?」
にやりと袋からパンを取りだして押しつける。そのまま係船柱に腰を下ろした。智希には積み込もうとしていたコンテナを逆さまにして椅子代わりに勧める。
袋の中には智希が飲む用なのだろう無糖の缶コーヒーも入っていた。もしかすると一緒に食べられるかもなんて思いながら買い物をしたのだ。
こんな歳になると、純粋な好意がどこか気恥ずかしい。
チョコが入ったデニッシュを大きく頬張る。久々の人工の甘さについつい顔が緩んでしまった。そんな寛治を見ていた智希もまた、カレーパンを口にする。外だというのに、粉も落ちないような落ち着いた食べ方だ。
「似合わねぇな……」
「なにがですか?」
二口目を咀嚼する智希が首を傾げた。
「なにもかも全部だよ」
綺麗に光る高級輸入車も、早朝だというのに寝癖のひとつもない智希の身だしなみも、そもそも智希の存在自体がこんなひなびた漁港には似つかわしくない。
そう、もっと洒落たマンションだかのリビングで、真っ白いプレートに盛り付けられた朝食を食べている姿なら容易に想像できる。そして、その前には穏やかに微笑む嫁さんでもいて……。
少なくとも白が残らないくらい汚れの染みこんだTシャツとウェーダーを身につけたオヤジなんかお呼びじゃない。
デニッシュを三口で腹に収め、果汁なんか入ってもいないオレンジ味の炭酸飲料を飲んだ。
「あ、寛治くん。そこにトリカラ君も買ってますよ」
半分ほどのパンを食べた智希が足下の袋を指さした。言われるがままに、まだほんのりと温かい紙の容器を取り出す。付属の爪楊枝でひとつを刺して大きく開けた口に放り込んだ。
「うめぇ」
「ホント、ジャンクな食べ物が好きですよね」
「うっせ。食うか?」
呆れたように笑った智希を睨んで、もうひとつを刺した爪楊枝を差し出した。
智希がコンテナから身を乗り出す。手荒れなんかしたこともなさそうな、しっとりと長い指が重なった。その指は寛治の太く皮の硬くなった指先ごと爪楊枝を引き寄せる。
「おい……」
智希は一口に半分をかじり、それから残りも口に入れた。ゆっくりと頬が揺れ、喉が上下に動く。それでも、指先は離れなかった。
「たまに食べるとおいしいですね」
そう笑った智希がまた爪楊枝に口を寄せた。そこにはもう肉の欠片も残っていない。少し開いた唇の隙間に、真っ白な歯列が覗く。
ぱくり――智希の口が閉じられる。
「お、い……汚ねぇ……か、ら」
智希が肉を口に含んで軽く食んだ。生温かな舌先が神経の集中した指先に絡む。
なんども――。
「智希……」
引こうとする手を、智希の両手が強く引き止めた。寛治の指先が喉の奥に吸い込まれる。覚えのある痺れが指先から胴体へと伝わっていく。それがいちばん遠い脳へと到達したとき、寛治は耐えきれず目を瞑った。
昨夜、智希の口がなにを含んだのか思い出してしまう。甘く吸い上げられ、あえなく達した寛治を愛おしそうに見下ろして、それから。
「っ……智希、無理して来なくていいんだぞ」
体内の危険信号に流されそうになる意識を引き止めようと、必死で日常会話を探した。答えるためには、智希も口を離さなければならない。そして、智希が寛治の言葉を無視するなんてあり得ないと知っているのだ。
「僕が来るのは迷惑ですか?」
もくろみ通り離された指先を海風が冷やしていく。怖々と開けた目の前にどこか寂しそうな智希の顔があった。
『生活リズムも違うしな。俺もそろそろ身体がしんどいから』
「いや、俺は別に……お前のほうがキツいだろう?」
内心の予行練習を裏切った口先が、卑怯な逃げ口上を吐き出した。労る振りで逃げようだなんてずるいだろう。
「忙しいのに、移動時間だってバカにならねぇだろ」
いわゆる商社マンとして働く智希は常に忙しく、不規則な生活を送っている。国内外を飛び回り、時差があるからと深夜に会議をしていることも少なくない。都内に仮住居があるくせに、少しの時間をつくって寛治の家にやってくる。そんな無理がいつまでも続くわけがない。
そもそも、親子ほど歳の違う男と付き合っているだなんて口が裂けても言うべきじゃない。
「……寛治くんは迷惑?」
淡々とした声が繰り返す。
『ああ、迷惑だな。俺だって近所の目もあるし』
手の中の紙容器がどんどん冷えていく。
智希が捕まえたままの寛治の指に唇を寄せた。今度は口に含まず、その唇を強く押しつける。
「……っ」
寛治は智希の住まいに一度だって行ったことがない。求めてくれるがままに受け入れて、後ろめたくなったらこんな風に逃げようとする。
臆病な卑怯者だ。
「冗談です。こんなこと答えにくいですよね」
軽くそう笑った智希がスッと離れた。
「寛治くんが優しいからつい甘えたくなるんです」
肩をすくめた智希が残りのカレーパンを食べ始めた。
心臓が嫌な音を立てている。
寛治は、冷えた肉を立て続けに口に入れた。味なんかもう分からない。
智希が缶コーヒーを傾ける。寛治がペットボトルを傾ける。
空いた袋にゴミを放り込んで、それを手にした智希が立ち上がった。
「引き止めてすみません。いってらっしゃい」
空はさっきよりも明るくなっていた。
のろのろと立ち上がって弁当を持ち直す。
智希の髪が海風に舞った。風に向かうように智希が顔を背ける。大きな手のひらが髪を押さえた。智希の顔がほんの少し光を反射した。
「綺麗ですね」
智希の感嘆の声になにも答えられない。怪訝に思ったのか智希が振り返った。自然と視線がぶつかり静止する。
智希が一歩近寄った。また海風が智希の髪を乱す。智希はそれを無視した。
「っ……あ……」
素早く動いた智希が視界を塞ぎ、その瞬間なにかが寛治の息を封じた。
それは一瞬だけ強く押しつけられ、名残惜しむように離れた。
「ごめん。寛治くんのことが好きです」
知っている。何度だって聞かされた。信じられなくて、しつこいほど繰り返されて、なのに未だにそれを受け入れきれない。
そんな寂しそうな顔をして謝るところじゃない。
謝るなら寛治だ。
『余計な気を持たせて悪かったな。これで終わりにしよう』
もっと智希に釣り合う相手がいるはずだから。
『だからもう……』
「いってらっしゃい」
智希がふたたび穏やかに微笑んだ。
『行ってきます』
「おまえも気ぃつけてな」
智希がほんの少し目を見開いた。
今度は、寛治のほうから一歩近づき、そのシャツの隅を少しだけ引っ張った。
「そんでもって、とっとと帰ってこい」
そう言い捨てて即座に背を向けた。
「行ってきます!」
背中で智希の声が見送ってくれる。それに、昨夜智希が用意してくれた弁当を高く掲げることで応えた。
湾を出る辺りでやっと視線を戻す。港にはまだ似合わない乗用車が停まったままだった。
「行ってくる……」
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