第2章 彼女の気遣い

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第2章 彼女の気遣い

「次は仰向けに寝て〜。腹式呼吸の練習にいってみようか。腹式呼吸といっても空気は肺に入るんだけど、出来るようになることで声を出しやすくなったり、リラックスしやすくなるからね!てことで、今からペア練!あたし達がお手本を見せるから、一年生はよく見てね」  縦一列から小ぶりな円になる。場所があってもあまり広がらないの練習をよく見せる為だった。  部長が横になると鬼灯先輩が彼女の腹に手を乗せる。 「自分自身では意識しても出来ていないことがありますので、ペアの方にこうして確認してもらってください。私が今触れてる臍の下にある丹田というところです」  吸うと腹が赤い山が現れて手が上昇し、吐くと山と手が沈んでいく。  意識しても出来ていないか……。  斜め前には腹式呼吸法をじっと見ている水瀬さんがいた。他の先輩もいる中、切れ長の目には惹かれるものがある。  見惚れとる場合ちゃうって、うち!!  一通り手本を見せ終わると、それぞれペアを組み始めた。もとより相手は決まってるんだけど。 「貴女から寝て」  当然、水瀬さんに従い、適当な場所にうちは仰向けに寝る。 「上手く出来ないと思います……」  紛うことなき本音。水瀬さんの膝小僧がうちの腰に当たった拍子にぽろっと溢れてしまった。  さっきみたいにまた出来ないんやろな……。 「吸って」  あれ?吸う時どうするんやったっけ。凹ませるの……? 「吐いて」  違う。吐く時に萎ませて……。  手本を見せてくれたばかりなのに記憶が靄がかり、再現出来ない。呼吸する時に腹をどうするか今までの人生で考えたことないからどこかに余計な力が入る。  今、吸って……?吐いて?どっちや?  膨らませる以前に呼吸の仕方までごちゃごちゃしてきた。焦るなと脳から命令を出しても効かない。  額の汗が照明の光によってより浮かび上がる。 「力み過ぎよ」 「わ、分かってます……!」  八つ当たりは良くない、それでは何も解決にもならない。理解していても体全体が硬直して無理で、風船が萎んだような音が最後に出た。  顔を水瀬さんのいる反対側へと傾ける。往生際が悪いとはまさにこのことだが、合わす顔もなかった。  うちの馬鹿あ!!これじゃあ、余計に惨めやん……あ、なんか泣きそう。  鼻の奥がツンとする。これ以上恥晒すわけにはいかないと思いっきり息を吸い込んで噎せた。苦しい。 「先輩方は言葉や方法を覚えて欲しかっただけよ。最初から貴女がすぐ出来るなんて誰も思ってないわ」 「誰もって……。み、水瀬さんは出来たじゃないですか……ぁ!出来なきゃ、うちも出来なきゃ意味な……けほ、けほけほっ」  ただでさえ脆くなっていた精神状態に鋭利な針の言葉が突き刺さり、痛感より崩壊が先だ。目の前で分かりやすくため息をつかれ、拳に自然と力が入る。人が真剣なのにそれはないやろ!?沸点はすぐに頂点へと達する。 「そ、そんなにとろくてダメなうちのことが嫌ならっ、嫌いって言えば良いやん!別にペアやからって気遣わんといらんって言ったらええのに!」  水瀬さんはそこまで言ってないことを頭では理解していても、冷静さを欠けた今のうちには無理だった。 「足引っ張るだけやん。水瀬さんのお荷物になるだけに決まっとる!うち、不器用やし……何も出来へん。うちみたいなのが変わるなんて無理やったんや……」  悔しかった。まだ初日、活動中なのにこんな姿を見せるなんてらしくなかった。思考も無茶苦茶で小さなお子様と見られても仕方ない。  水瀬さんにとって昨夜の行為も初じゃないんだろう。美人だから数えきれない恋人がいたに違いない。だから今朝だってあんなことを言ったに決まってる。 「黙りなさい」  水を打った静けさが体育館を包む。感情が取れない彼女の声に怒気が含まれていた。影に浮かび上がる瞳と威圧に慄き、涙は引っ込んだ。 「まずはいつも通り息をするのが大切よ」  指腹が丘から下り、肋を通り、肩に移動すると前後に撫で始めた。 「……っは、……え?」 「無理に腹式呼吸をしようとするんじゃなくて、段々と意識すれば良いわ。まずはリラックスして」  目が点になった。さっきとは打って変わり、声に温かみを感じられるからだ。  肩を撫でる優しさも別格だった。頭がふわふわと軽くなるような、それでいて頭を撫でられているような、不思議な感覚。例えるなら子供の頃、親に撫でられた感覚に似ている。懐かしい……。  そんな些細なことで心を覆ってた分厚い氷が溶け始めていく。次第に普段の呼吸に戻っていた。 「溜まった息を吐く、まずはこれだけを意識すればいいわ」  吸う方が先じゃ、と思考がクリアになってきた頭で考えていると、水瀬さんは見抜かしたようにこう言った。 「ゆったりと空気を吐く方が大事なの。二倍ほどの時間をかけてやる。瞑想でも重視されているわ。これから四セットやるからそのうち一回でも出来たらいい」 「一回でいいんですか……?」 「練習さえすれば上手くなっていく。貴女ならやり遂げられる」  自信がどこから湧いてくるのかは不明だった。何故で会ったばかりのうちをそこまで信用出来るのか。当てずっぽうに言葉を並べてるだけで保証なんてどこにもないに決まっている。  水瀬さん、ずるい。器用美人でうちとは真逆なのに、揺るがない瞳が信頼してくれてるように思えるのだから。 「すぅ……はぁ………」 「息を長く、深く吐いていきなさい。嫌なことも一緒に出すとやりやすいわよ」  嫌なこと。すぐに思い付くのはやり方を教えるこの女の子のことだ。思ったより自分は根に持ちやすいタイプみたいで、それだけは見ぬかれたくないな。 「吐ききったら次はもう一度吸っての繰り返しよ。出来てるから花丸ね」  そこは合格点やないんや。お姉様的口調が崩れる彼女の言葉のチョイスの方が花丸なんやけど、と頬が緩んだ。  丹田にある手は全く重さがなく、天使の羽が天高く浮かんでいくかと思えば、沈む時に重力で姿を現わす。  呼吸を繰り返すたびに体はふわふわしているのに、すーっとして体が伸びきる気持ち良さが全身に行き渡る。お腹からぽかぽかする。これが部長が言う効果の一つなのかもしれない。 「最後。吸って……そう、吐いて……。出来たじゃない」  良かった。実践出来たんや……う、ち……。  安心感と達成感の余韻だけではないみたい。溜まっていた睡魔が襲いかかり、落ちてくる目蓋へも無抵抗になる。  出来て間もないくまをそっと、誰かがなぞってくれた気がした。
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