第2章 彼女の気遣い

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第2章 彼女の気遣い

「美味しそう!!」  エビフライやミートボールにブロッコリーやトマトなどの色とりどりのおかずに、ふわふわと湯気がたったご飯、豆腐と刻んだ油揚げの味噌汁が保温弁当箱から姿を見せた。 「いいんですか?いただいても。水瀬さんのじゃ……」 「わたしはのり弁当があるからいいわ。そっちは余分に用意したものだからどうぞ」  いつの間に手を合わせたのか、水瀬さんは既に食べ始めている。慎ましくおちょぼ口でのり弁をうんうん頷きながら箸が進めている。やっぱり美味しいのだろう。感化されてか腹の虫も悲鳴のような鳴き声を上げた。 「いただきますっ!」  エビフライを持っただけで衣のサクッとした音がし、顔がほころぶ。キツネ色のを一口齧れば、ぷりぷりでジューシー、あったかい。 「おいひい……!」  ミートボールは歯がいらないほど柔らかく、茹で野菜も程よい塩が効き、どれもこれも美味しくて箸は止まらなかった。ご飯もふっくらで米がたっていて美味しい。一口食べる度に瞳をキラキラさせてしまう。 「卵焼きには……大葉ですね」  黄色と緑のバランスが食欲をそそる。どのおかずよりも分厚い卵焼きが半分に切られ、一欠片、口に放り込むと驚愕した。 青葉の風味は爽やか。卵の濃厚さをさっぱりとさせている。そこまでは想像通りだった。  もぐもぐと一定のペースで動かしていた咀嚼を緩め、見開いた目が細まり、噛み締めるように、懐かしむように食べ進める。 「どう、しょっぱい?」  意味ありげに訊く水瀬さんにしばらく目が合わせられなかった。膜が張り、視界が滲む。目頭が熱い。  お母ちゃんお手製の醤油のしょっぱさが加わった卵焼きに近いもの。この学園で食べた甘い卵焼きではないしょっぱい卵焼きだった。 「味噌汁も飲んでみて」  器には淡い茶色のスープが注がれていた。口に含んだだけで香るお出汁。それでいて後味がさっぱりして毎日朝と夜に欠かさず飲んでいた味噌汁だ。  込み上げて来るもので渋滞したが、滲んだ視界の中、水瀬さんが優しく微笑んでいる。 「お母ちゃんの作ったしょっぱい卵焼きと、お出汁の味が……ちゃんと、します……」  短期間で我慢してせきとめたものが呆気なく崩壊した。溢れる雫が迂闊に調味料となってしまわぬよう、器を置いてハンカチで拭き取る。鼻を啜り、また味噌汁を味わって飲みだした。 「辛くない……」 「口に合うようで何よりだったわ。何度か試食してみたけれど、わたしは関西人じゃないから加減が難しいし」 「これ、水瀬さんが作った……というか、何故、私が関西出身だと!?」  最後の一滴まで惜しむことなく完食したおかげで噎せることはなかった。瞳をぱちぱちさせ、空になった弁当と水瀬さんを交互に目を向ける。沢庵を口に運ぼうとした彼女は箸を置いた。 「もちろん、わたしがおかずも味噌汁まで作ったわ。単に趣味。貴女が関西出身と勘づいたのは初対面の時から。語尾から方言が滲み出てるし、隠し切れてないイントネーションもあったわ。友人も薄々気付いているんじゃないかしら」  ボリボリとした咀嚼音がしても風姿からか美しい音色だと錯覚してしまう。思わず聞き入っていた。  水瀬さんがこんな丁寧に詳細に話すのは条件を飲むかどうかの時以来だった。料理が趣味で側も美女なんて非の打ち所がないやん!ツッコミはさておき、包み隠しきれてないムラがあるなんてと落胆した。ちほちょんも自分に合わせてくれたのかと思うと面目ない。 「じゃあ、なんでしょっぱい卵焼きやさっぱり味噌汁を作ったんです?水瀬さんも関西……?」  もしくは親戚が関西か、ないか。 「全くもってハズレよ」  違うか、やっぱり。 「ま、そうね。言うならば母国の味って時々、無性に恋しくなるものよ。親元から自立して旅立っても、自分という形を作った母の味を忘れられないといった感じかしら」 「母の味……」  うちの母は豪快に料理を作る人で調味料は感覚。見ても全く参考にならない。食堂バイトで培った味は繊細さもあり、すぐにお代わりに手を伸ばしていた。  水瀬さんの視線は窓の外へ向いている。肌を撫でていく風が春のうららかさを教えてくれた。  故郷とかお母さんとか思い出してるんかな。  趣味の範囲でうちの好み寄りにしないだろう。意外にも挑戦的な水瀬さんだが、わざわざ一人用の弁当を作るのも考えにくい。 「なんか、ごめんなさい。お手を煩わせてしまって」  いい迷惑だと思ってるはずやんな、謝った。これまでの間で一番デカいため息が頭上から耳に入る。 「何言ってるの分からない」 「私のためにわざわざ、すみません」 「そうではなくて」  桜の花弁が風に乗り、追いかけるように顔が床から離れる。薄ピンクの花はそのまま水瀬さんの髪にかかった。 「ありがとう、と言うべきでしょ」  真っ直ぐ、先を眺めていた水瀬さんが漸く笑咲の方に姿勢を動かすと、脚を崩した。膝小僧同士が擦れ、じんと転んだとこに鈍く響いた。 「感謝の言葉は謝罪よりもずっと気持ちのいいものなの。お互いにね。無下したり踏み躙らないためにも、それから貴女も自信を持ちたいのなら、言い訳も謝罪も文句も今は無し。分かった?」  桜の唇が吹く言葉の端々には優しさと気遣いが散りばめられていた。水瀬の心遣いが声の温度を上げ、素直に聞き心地が良い。 「ありがとう、カリンちゃん」  自然と笑えた。窓際に咲く満開の桜に劣るに決まってるけど、彼女の前で気持ち良く笑えたのは初めてかもしれない。 「あの。水瀬さん……髪に桜の花弁がついてます」  傷みなんて経験ないようなサラ髪なのに一向に離れず、水瀬は反対の左側を払い続けていた。 「私が取りますね」  雪原に咲いた桜。奇跡のワンシーンを自分の指で奪ってしまうのは癪だと思える。だからといい、こゆるぎと待つ彼女のためにも早く済ませてあげなければ。  あれ……?上手く掴めへん。なんでや?  人差し指と親指の腹ばかり重なり、肝心の花弁が掴めない。真剣にやっているのに掠ってしまうのだ。 「まだ?」  あと、ほんまにもう少し……!  身を乗り出したうちはやっとの思いで桜を取ることが出来た。その達成感がさらに気を緩ませた。重心が前へとズレ、膝の一点では重い体は支えられずに本日二度目の前方転倒。  しかし、痛くない。ふかふかして、しっとりとしていて、鼻腔を擽る甘い匂い。最近、外で香る匂いとよく似ていた。 「全く。貴女って子は自ら危険に飛び込む兎なのかしら。それとも外に出たことない無垢な兎なの?」  最初に目に飛び込んできたのは赤、次にピンク。それから、青に、白。 「みみ、水瀬さ……」  控えめな双丘から即座に退こうとする手を水瀬さんは逃がさない。指と指の温度の差に高体温なうちの方が溶かされてしまいそうだ。 「カリン」  吐息が肌にかかる。 「他人行儀は嫌いなの。だから敬語も禁止。カリンと呼んでくれない?さっき貴女が言ったみたいに」  確認するように問われ、無意識だったことに気付く。みるみる顔を熟した林檎になっているだろう。はくはくする口からは何も出てこない。羞恥メーターを振り切りそうな勢いだ。 「わたしには無理?」  首を傾げる攻撃を水瀬さんはしかける。背中に柱があったおかげで全崩れは免れたが、ほぼ視線が同じになった正面からの不意打ちは効果抜群で、ぱちぱちと何かが弾ける。喉の奥の乾きも感じていた。 「……カリンちゃん、カリンちゃんじゃダメ……かな?わた、し、誰かを呼び捨てで呼んだことないから」  息を吸う度、彼女のかぐわしい匂いに脳内が蕩けそうで、胸の奥がじんじんと熱い。早く退かな、と瞳が潤みながら訴えた。必死に抗う姿を楽しむ水瀬さんは自分より重く、もたれたうちを簡単に抱き寄せる。 「わたしの前では方言を使うのなら、構わないわよ」  疑心暗鬼な誘惑が剥き出しの耳から伝わってくる。 「桃の花のような貴女が使う方言は随分と愛らしく思えるけれど?」  自己評価も平均より低いうちにとって、愛らしいの一言は脳内変換に時間がかかったもの、これまた高ダメージを食らった。桃の花が文字通りの意味にしか捉えられなくても、強い。 「……分かった……から!うち呼びやけどええの?変なのとか思わへん……?」 「あら、さっきの褒め言葉じゃ足りなかった?わたしのペアは欲しがりさんみたいね」  ぼうっとする頭で普段調子よりも頑張っていたうちだが、そろそろダメだ。寝不足と相まって堕ちてしまう。このままでは格好がつかない。 「今朝は悪かったわ。公にするつもりはなかったのだけど、貴女との信頼関係の為にも必要な質問だったの。でも、わたしもうっかりしていた。不快にさせたのならごめんなさい」  急に話題を変えてカリンちゃんは胸の中にいるうちに謝った。タイミングの悪さから狙っていると疑いをかけるのは簡単だろう。それでも冗談ぽくなくて腑に落ちた。 「……いいよ。その代わり、うちもお願いしたいことがあんねんけど……」 「わたしが一手多かったもの。貴女が何か言う権利もあるわ」  上からの物言いは気になる点もある。それでもうちは「あ、まただ」と思った。 「うちのこと、笑咲って呼んでくれなきゃ。嫌や……」  ごくん。生唾を飲み込む音がする。  体の力が抜けていき、胸を枕にしてしまう。口の端から涎が零れちゃった。 「待ちなさい。貴女……!」 「笑咲。うちは……如月 笑咲。兎でも、桃でも貴女でもちゃう……。うちのことは呼んでくれへんの?カリンちゃん……」 「………っ!!え、……笑咲……」 「嬉しい」  たどたどしい小声でも自分の名前を呼んでくれたことが嬉しくて堪らない。熱い息を吐いて身を預けた。  桜が大きく揺れ、風に花を奪われるのを窓を叩く音が途切れる意識の刹那、聞こえてきた。暴れん坊な春の知らせだ。
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