第3章 はじめて

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第3章 はじめて

 世界が小刻みに揺れている。決して縦揺れ地震ではない。 「そんなに緊張していたら他の方に迷惑になるわよ。もっとしゃんとしなさい」  カリンちゃんの言う通りだ。振動は振動を呼ぶ。緊張なんかで震えている場合じゃない。 「や、やけど、ゆめ、夢原せん、先生が……!」 「落ち着きなさい」  ばちゅん。両頬を挟まれて唇が尖った。 「憧憬の念を抱くことは結構だけど、ファーストペンギンは何でも突拍子のないことをしていいとは限らないものよ。仲間も自分も生き残れる訳ないじゃない。それに、産まれたてのヒヨコの方がしっかりしてる」 「へんひん。ひひょこ」  うーん、絶好調である。うちは彼女の独特な表現技法をカリン節と呼ぶようにしている。本人には口が裂けても言えない。今日に至っても意味を十割も取れないけど、ペンギンの群れ……。きっと、郷に入っては郷に従えという意味やろか?  文月から葉月へとカレンダーが捲られる頃、百合ノ花演劇部は東海に訪れていた。部長の別荘の近辺で全国高等演劇部大会が開催されることとなり、鑑賞を含めた二泊三日の合宿だ。  二日目の午前七時。部員に課せられたのは勿論、スタジオを借りた練習ーーではない。うちらとカリンちゃんが今いるのは県をまたいだ書店であり、『ラビリンス二巻発売記念!コミックスをご購入していただいた方は夢原彩月先生のサイン会に参加出来ます』と大々的な売り文句看板があるのだから。  あ、どうしよう……次、うちだ……。  前の人が衝立で仕切られた中へ。うちも青テープを貼ったところまで進み、収まった緊張がぶり返した。また浅い呼吸が始まる。心臓が本当に飛び出すんちゃう?なんて不安は杞憂なのかな。  制限時間は一人当たり五分。まずは二巻が面白かったことと……あと、一巻の感想も。それから守君の……あああ、ごちゃごちゃやあああ!!  紙に書き出して整理したいほど伝えたいことが山ほどある。手紙なら内容プラス口でもお伝え出来て一石二鳥なんやけど。  しかも、ラビリヤンの皆さん……先生に貢ぎ物を……!!  貢ぎ物は大袈裟だとしてもクッキーが有名な袋やラッピングされたアクセサリーなど差し入れの品を用意しているファンばかりだ。今日発売されたばかりのキャラぬいぐるみを抱いてる人、帽子をアニメの缶バッジでアレンジしてる人……。心の中で膝から崩れ落ちた。同人時代からのファンとして何も持っていないなんて、自分に対しては許せないっ!  頭がクラクラしてきたところでスマホが震えた。 『笑咲、腹式呼吸を思い出しなさい』  ポコン。 『今日は大好きな人に出会える中の一回と考えたらいい。どんな形であれ、好きを体現出来るのなら貴女はもう立派なファンの一人なのよ』  トーク画面を開いていたからカリンちゃんのところにすぐ既読がついたはずだ。  今朝、部長から部員に伝えられたことは「一日、ペアと夏の思い出作りに自由行動しよう!」の一言。各々旅行雑誌やスマホ検索で観光をエンジョイするか模索する中、うちは問答無用でカリンちゃんに連れて来られた。サプライズを超えて失神する寸前だった。彼女もコミックスを購入し、参列してうちの一メートル後ろで呼ばれるのを待っている。  メッセージはたった三文。視覚から入る文字は心を特に感じるもので相手の顔と声色が見聞き出来ない分、その力は恐ろしい程に強大だ。  視界を真っ暗にさせ、鼻から息を吸い、口から吐く。お腹は膨れ、徐々に萎んでいく。吸い込む時に肩を上げないようにするのが腹式呼吸のポイント。  ……最初の一回じゃなく、出会う中の一回。好きを伝えたらそれでいい。 「次の方、どうぞ〜」  床にしていた足を一歩、また一歩前へ。右と左。腕は軽く振り、視線は前へ。  大丈夫、大丈夫。大丈夫やって!  衝立の森の出口で一呼吸をする。 「おはようございます!」  あかん、やってもうた!部での挨拶は演劇界に倣い、例え夜でも「おはようございます」が基本だ。腕時計の針は十二時少し前を示している。 「おはようございます」  ふっわふわの綿菓子のような柔らかな声。鎖骨まで伸ばしたベージュ色の女性は微笑む様子まで柔和だ。 「守と神谷の挨拶も『おはようございます』ですもんね。覚えていてくれてありがとうございます」  どうやら作中のやり取りを真似したと捉えてくれたみたい。こちらこそフォローが入り感謝なんやけど。  早速、二巻のコミックスを夢原先生に渡す。 「今朝は肌寒かったですよね。急な雨で足元も悪い中、参加して下さり感無量です」  先生は表紙をノールックでサインしている。綺麗な字だ。 「お名前を拝見してもいいですか?誰か好きなキャラはいますか?第一印象で気になる子がいれば……」 「笑咲……笑顔の笑みに花が咲くの咲くで笑咲です。坂下守君が大好きで……!二巻でのビルから飛び移る時、急いでいるのに女性を説得して励ますところ、まさに守君!という感じで感激しました」 「わお。もう二巻読読んでくれましたか。守は僕も好きなので嬉しいですね」  うん?今、一人称のことを「僕」って言ったような気が……。先生は性別を公開していない。二人いるのでは?と囁かれたり、作風から女性だと噂がある。姿形、声も女性的だ。 あと、同人イベには一回も参加したことなくて、いつも自家通販で同人誌を配布されていて……。  思えば先生にとって初顔出しのイベントだったことに今さらながら気付く。アニメのリアルイベントでもコメントでの参加だ。 「笑咲さんへ……っと。とても素敵なお名前ですね。笑顔の花か〜」 「はい、私には行き過ぎた名前なんですけどね」  この名前は嫌いじゃない。響きも大好きで可愛い字体だと思う。だけど、名前の影に隠れて胸を張れない自分がいる。 「どうしてです?守のことを話す時の笑咲さん、愛らしい笑顔されていましたよ。まさに名の通りだと思いました」  きょとん顔から夢原先生は微笑んだ。雰囲気のおかげもあると思うけど、初対面なのに構える必要のない安心感がある。 「守って、作家自身が言うのもなんですが、人相悪いせいでかなり不幸な目に遭ってきてますよね。器用で人を惹きつける才能を産まれながらに持つ神谷と違って。いざこざはありますが、彼らには切れない友情があります。それと同じで守には守だけの才があり、それは神谷にさえ奪えないものだと信じています」 「……人を守るの守……」  夢原先生は力強く頷く。初期のプロフィールに書かれていた名前の裏設定。  心地良い声質と言葉の端々から守君への愛を生で感じ、うるうるした。ファンとしてこれ以上の解釈があるだろうか? 「勘違いされやすい彼の良さを見つけて下さり、ありがとうございます。笑咲さんの良さや自分にはまだ見えていない才も必ずありますよ」  サインに描かれた守君は無愛想だ。でも、これでいい。  先生を纏う安心感は守君と神谷さんを生み出し、育てた親だからだとうちは肌で実感した。 「最後に何か質問や感想などありませんか?今後のネタバレになることは当然お楽しみになんですけどね」  夢原先生を挟む店員さんのふくらはぎの高さほどのダンボール箱が置かれている。緑と青のラッピングされたものが積み重なり、小山をつくっている。  今日のイベントはただの一回なんかじゃなかった。 「……い、ら……」  やっぱり、初の一回目や。今日はもう二度とやって来ない大切な日。皆はそれが分かっていたからプレゼントを用意していたんや。なのに、うちは何にも贈り物は持っておらへんし、このショルダーも降ろしたてやから何にも付けてへん。だから、 「『情景』の頃から応援し、していました!先生の繊細で温かみのある世界観が大っ好きです!」  しまい込んだはずの情熱が波となって沖に流れ出す。興奮とは恐ろしいものだ。今なら何でもやれそうな気がするんだから。 「いつも、心の支えになっていて、うち、うち……」 『うちも先生のような小説を書きたいと思いました』  本来はそう送るべきはずの感謝の言葉は途端、胸の奥でつっかえてしまう。エアコンの冷気に乗る埃とインクの臭いに咳き込んだ。 「……これからもお体に気を付けて頑張ってください。応援しています」 「こちらこそ同人の頃から応援して下さり、本当にありがとうございます。笑咲さんの活力を糧にしますね」  ゴッドスマイルは突然の雨にも効果があるらしい。折り畳み傘の必要はなく、快晴の空に目を細めた。
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