第3章 はじめて

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第3章 はじめて

「全国大会の出場校……ハイレベルだったわね」  夏限定のピーチサイダーの弾ける甘さが、からからの喉に潤いと幸福を届けてくれ、息を吹き返した。 「うん……凄かった」  去年の優勝校だけじゃない。ほぼ同い年の高校生が舞台上で豹変し、どのキャラクターも煌めいてるのに一体感がある。 「特色があって、個性がどこも爆発しとった」 「そんなレベルの演目が三日も続けられるのね」  再び二人の間に沈黙が訪れ、赤のオープンカーが道路を横切る。近くにいたらむあっとした排気ガスを浴び、さらに汗をかいた。  正直、不安で一杯なのが正しい。  忍先輩や部長も言葉数が少なくなり、街頭の灯りだけじゃ道が分からなくなるほど百合ノ花演劇部の空気は朝と違っていた。もっと練習しやんと、もっともっとちゃんとしやんと地区大会すら勝ち進めへんかもしれへん。  畳ある居間で部長がどうしてあんなことを言い出したのか。不安と一緒に疑問が押し寄せる。 「さっきのことだけど」  カリンちゃんは瓶口から魅力的な唇を離す。小倉マーガリン風味の牛乳って味の想像がつかない。 「あ〜、部長?何であんなこと提案したんやろうね。夏休みも過ぎたら地区大会あんのに……」  百合ノ花は三年間、第一回戦となる地区大会にすらエントリーをしていない。だから、確実に今年は出場するのかどうかすら分からない。顧問の小松先生にこっそり教えてもらったが、出場しない理由は答えてくれなかった。 「そうじゃない。何かあったの?」 「何かって……」 「夢原彩月」  ガラ空きだった駐車場に一台車が駐まり、邪魔を察したうちらはスーパーの曲がり角に身を潜めた。水路があるけど幅はあって二人が並んでも大丈夫だった。 「べ、別に何もないよ?」 「貴女がネガティブな性格なのは身をもって体験したけれど、もうひとつハッキリしたことがあるわ」  彼女は唇についたミルクをペロリと舐めとった。艶めかしさにぱちぱちと何かが弾ける。 「……隠し事が下手。恐らく一生直らないんじゃなくて?」 「えっと、傷付くんやけど……」 「重視してるのは下手云々ではないの。笑咲、夢原彩月に無慈悲なことでも言われた?」  陽の光を吸い取った川はキラキラ輝いていたのに、カリンちゃんの体が妨ぐ壁となる。微弱な動きでも見逃してくれないようで、観念して口を滑らせた。 「酷いことは言われてへんよ。めっちゃいい人で、名前も褒めてくれた」  雰囲気も考え方も柔軟で慈悲深い人。ファン一人にもどう答えたら幸せになれるか分かる人。夢原先生だからこそ素敵な作品が生み出され、人々の胸に届いて愛される。 「うち……、ハッピーエンドが心の底から大好きなんよ。結ばれる二人の恋路とか、感動の再会とか、読むだけで心が暖かくなる幸せな終わり方が大好き。やけど、うちが筆を持つと自然とバッドエンドになってしまうんよ……」  ちょうど一年経つ記憶のノートはしっかりと鍵をかけ、ゴミ箱に捨てたはずだった。まだ消滅しないそれを自らの手で拾うと新品同様にも見える。  中学時代、いつも遊ぶメンバーに小説家志望の友達がいた。他は漫画派だったけれど、その子だけは愛読書も小説で、互いに小説を貸し借りしては感想を言い合うほど仲良かったと思う。  関係に終わりを告げることとなったのは、三年生最後の夏休み。真剣に受験勉強に取り掛かる前。 『笑咲ちゃんも小説、書いてみぃへん?』 「キャラに恨みもない、愛情も注いでる……っ。やけど、なんでか悲しいストーリーになる……。もっと、もっとうちに才能があれば、キャラを生かせて、バドエンでも受け入れてくれるんかもしれやんけど、所詮はボンクラやから不快にしかさせなくて……」  原稿用紙の欠片が床に散らばり、窓からの風で隅に偏る。ボーイズラブではない、人生初めて書いた物語は初めての読者によって作者の前で死んだ。 『気持ち悪い』  気分が悪い。思い出への深入りが悪かったのか、込み上げてくる禍々しいものを感じた時だった。うちは壁際の湿った陰から陽の方へ強引に引き寄せられる。同じシャンプーのオレンジの匂いがするな否や、背中に手が回ってきた。 「本当に嘘が下手ね」  彼女よりも広い背中を一回りはある手が摩る。  耳を澄ませばとくとくと小刻みに鳴る心臓の音、水のちろちろとした流れ。 「素直なのは貴女の良さであることは間違いないわ。だからこそ、気持ちにまで嘘の布を被せて自分自身を騙さなくても良いじゃない」  この撫で方をうちはもう経験済みだった。初めての演劇部の練習で安心感を教えてくれたあれ。カリンちゃんの手が動くことによって、肌と衣類がぺったりついちゃうはずなのに、温度の低い手からは気持ちの良い温かみしか生まない。  さらに抱き寄せられ、身長のせいで踵が宙に浮き、耳元で囁かれる。「笑咲」と。  ぞわりと産毛を立たせる声が夏のせいか熱くて、黒く固まった思考がチーズみたいに溶けてしまって、 「ーーー、ーーー?」  もう、あかん……、無理……。  白のフリルブラウスの丘ににぽたぽたと灰色に濁る。夏の天候は我儘で神様ですら止められない。雨粒を甘露だと欲しがる妖精は弱虫な人間に捧げるのだった。甘い小倉と塩っけのあるバターの口付けを。
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