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第3章 はじめて
淡い光が灯ると、カリンちゃんはベッドへ腰掛ける。
「きついかしら?苦手だという人もいるらしいけれど」
「ううん。全然、大丈夫」
香りが強めだとうちも酔う。ちょうど良いジャスミンの甘い香りを吸い込むも、気分が晴れたわけじゃなかった。
部長……鬼頭先輩は決めるところは決める凛々しさと決断力を持つ、普段は会話に入れないと落ち込む寂しがり屋さんな三年生だ。彼女が鼻血を前に平静さを失うなんて通常運転から程遠い。
「浮かない顔ね。貴女まで狼狽えたのかしら」
「……っ、呑気にはおられへんよ……。だって、あの部長がだよ?カリンちゃんはどうして平気でコーヒー飲んでおれんの?」
脚を組んでいる彼女は口付けたティーカップを傾け、喉を通った。
「ミルクよ」
「どっちでもいい」
「良くないわ。鬼頭先輩のことは他の先輩方に任せましょう。新入りが出る幕なんてないのよ」
「それこそ良くない!皆でチームやろ……?部長が大変な時なのにうちらだけ悠長にただ待っているだけだなんてダメやん……」
先輩方がうちにしてくれたみたいに、部員だからこそやれることがあるはずだ。
カチャ。カリンちゃんはカップを隣接のテーブルに置いた。
「ペア制度や関係を否定はしたくないとは言ってたけれど、別個人の深みまで知りたいとは初耳だわ」
別個人?腑に落ちない用語に引っ掛かりを覚えてしまう。
「約四ヶ月は過ごした先輩やろ?何があったんかな、と思うくらい変とちゃうやん」
「じゃあ、今から貴女一人でも行ってきたら?貴女の知る部長やメンバーが必ずそこにいると確証はない。足手まといになれば行ってくればいいじゃない」
部長の他に忍先輩、シェリー先輩、鬼灯先輩の見えなかった過去がチラつき尾を引いているのもある。
部屋に戻る前に何かしらのアクションを起こせば良くて、無意味な喚きもせずに行動力を示せばいいのに、どれも出来ない。扉を閉めるまで下は大慌てだった。
彼女の顔に出来た半分の影はパーツをより際立たせ、青く光る瞳も負けず劣らない存在感がある。吐き捨てられた言葉は薔薇の毒棘で、顔を歪ませるだけで精一杯だ。
「人には……許可領域と踏まれたら諸共崩落する領域があるの。それから、パニックを起こした本人よりも周りが騒ぎ立てる方が逆効果になるわ。今は悠然と構えて信じて待つのが賢明な判断よ」
アロマとは違う、爽やかな果実の香りがする。互いを知るために同一のシャンプーとボデイーソープを使っているせいだ。
うちも彼女に腕を背中に回すと、いつもと違うことに気付く。
「カリンちゃんの体、熱ない……?」
エアコンは起動していなく、寒冷を好む彼女にしては変だと思った。アロマを炊けばそれなりに蒸し暑くなるし、ジャージといえどどちらも袖が長い。返答がないことに不安を感じ、前髪をかき分けて額を触ると、汗ばんで熱を持っている。
「寒い、笑咲……」
吐息が肌に掠り、火傷したかと仰天した。
「と、とととりあえず横になろ?ええっと……水!タオル絞ってくるから。先輩達呼んでくるから……ね?」
夏風邪なのか、はたまた持病や重い病の兆候だとしたら。部長がヒステリーを起こしたのをほんの数分前に見た。嫌な考えが加速して嫌な結末しか出てこない。
あかん……、うちが弱気になったら……。周りの人が慌てたら逆効果やのに……泣きそうになる……!
「わっ!?」
寝かせようと体重を横にかけたら二人同時にベッドに倒れ、柔らかな低反発を受ける。
このままやとカリンちゃんの熱がどんどん上がっていく……。市販薬も持ってへんし、苦しそうやし……。
首の後ろから浅い呼吸が熱と一緒に外に出るのが聞こえてくる。楽にしてあげたい。周りがパニックになったらダメや、落ち着いて対処して、静かに寝かせてあげへんと。
自力で抜け出そうと試みるが、彼女の腕が強く絞め、きつく抱き着かれてしまう。人間抱き枕状態だ。
「逃げ、ない……で、チハル……」
弱った彼女の口から漏れたのはうちの名前じゃない。友達なのか、家族なのか、女性か男性か。
「一人に……しな、いで……」
心臓を黒い霧で覆われる感覚に陥りそうなうちは打ち消すようにカリンちゃんの背中をさすった。
「うん……逃げないし、一人にしないよ……?」
酷い嘘だと我ながら思う。若干声を高めに出し、彼女を真似て背中を撫でた。少しでも安心するように、少しでも苦しさの熱から解放されるよう、手に願いを込める。
「わた、し……のもの。とらないで……」
奥が刺殺される。血が溢れ、痛い。
「……うちは……」
『大丈夫、これは契約に過ぎないわ。そこに感情なんて生々しいものはいらない。だから安心なさい』
「……うん、取らないよ」
しばらくするとゆったりとした息遣いがしてきた。ほうっとため息。耳裏に肩の隙間から逃げた息が当たり、熱い。
どうして思い出したんだろう。今日一日で目紛しく起きた出来事より、自分の過去よりも鮮やかな初日の記憶。うちがカリンちゃんに対し、恐怖心を抱いた日。
もしかして、それは契約に関する恐ろしさではなかったのかもしれない。
「うちは……どないしたら、いいんやろ……」
誰に向けたのか曖昧な言葉が漂う。
背中にある手を唇へ運ぶ。破片で切ったのか傷があり、血が出てくる。赤い指先はそれ以上の行き先がなく、仕方なく咥えて汁を飲み込んだ。鉄と塩が混じり、不快な味。頬を汗が伝っった。
その後、忍先輩とシェリー先輩が様子を見に来てくれた。部長はなんとか落ち着いたようで、カリンちゃんのためにお医者さんを呼んでくれた。部長は鬼灯先輩とここの家主で部長のお婆様が見守る中、安眠中とのことだった。診断の結果、夏風邪とうちの耳に届いたのは日をまたいだ頃。何かの力が抜け、先輩方の有り難みを感じた。一人の寝室で枕に顔を押し付けながら、うちは声を押し殺して泣いた。
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