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第1章 変わりたい!
身震いによって飛び起きた。
「……っ!な、なんやまだ夜か、って、あ……寝てしもた……」
春の夜風はひんやりとしているせいで、長袖に毛布を被っていないと寒いことを上京してから学んだが、夜の九時を過ぎてなお、未だセーラー服のままだ。
「それにしてもなんや寒いな……。昼間はあんなに暖かかったのに」
気温の激しさに肉厚な腕を何度も擦る。部分的に熱くなるが、持続する効果は期待出来ない。冷気が面積広めの首筋にかかってまた大きく震えた。
「さっむい!クーラーでもかかっとんの?」
窓は閉め切ってあり、窓から眺める街の光とは対照的に部屋は真っ暗だ。耳を澄ますとガーとした音が。
え、まさか嘘やろ?勝手につくとかそういうのとか?この学園なら有り得そうやけど。なんて考えながら立ち上がると、急に電気がついた。
「あら、そんなに寒い?」
「ぎゃっ!出た!!」
虫を踏み潰したような叫び声を上げ、ベッドの上で跳ねた笑咲はその場に蹲った。
もしかして、寒かったのって幽霊がいるから?
そういった類いがてんでダメなうちの就寝は最低でも豆電球をつけないと眠れない。恐怖により呼吸が浅くなり、体は恐怖で震える。
お化けやだやだ、怖い、あかん、怖いぃ……。
焦りで頭と視界がぐるぐる回り、本当に気絶を起こしかねなかった。
「ねえ」
「やだぁ!殺さないで……!」
「……別に殺さないわよ」
肩に触れた手があんまりにも冷たくて一瞬、死を覚悟したが、滲んだ視界には白い何かが目の前にあった。それだけなら泡を噴いて倒れたかもしれない。もっと酷い羞恥を見せなくて良かったのはその声に聞き覚えがあったからだ。
「わたしのペア相手にそんなことをしても得も何もないでしょう」
今朝と同じ白のセーラーを身に纏った水瀬が悠々と体を戻す。
「水瀬、さん……っ?どうして、ここに……?」
同じ高等部だ、寮に住んでいる可能性もある。ここの二人部屋はもう一人の入居者を待っているところだ。
純粋な疑問を持つうちを一目見るなり、水瀬は「はぁ」とため息をつく。
「どうしても何も、葉月さんから聞いていないかしら」
葉月とはここを切り盛りしている婦人のことだ。入寮ギリギリになっただけでなく、上京したうちを気にかけてくれている点で親の次に信頼を置いている人物である。
「えっと、『ここにはもう一人入るけど、仕事で遅くなっちゃうみたいなの』……と」
入寮日にそんな説明を受け、隣のシングルベッドや机といった家具は触れないように気を付けていた。
「そこまで言っても、分からない?」
表情は複雑には変わらないものの、声色から呆れていて混乱してきた。
「で、でも、先輩なんじゃ……」
サクラ寮では学園同様に高等部の先輩後輩の関係を尊重している。ちほちょんの部屋には先輩が二人いる四人部屋。進路によって三年生や留年生以外そうやって割り当てられるが、期限間近になったことで二人部屋しか空いていなかった。
相手が一年の……しかも水瀬さんやなんて……。
「何か問題でもある?今日からは学業に専念するから当分は休業中よ」
「お、お仕事って、なんですか……?」
「……モデルよ」
もでる。水瀬さんから飛び出た単語を繰り返すが実感がない。
「疑ってる訳では無いんです!ただ、想像通り過ぎてやばいな〜って、あはは……っあ」
口から漏れるとはこういうことなのか、あまりにもすんなりと本音を吐露してしまい、その場で反省をした。
昨日今日の周りの反応からしてもモデルてのは納得やけど、ペア相手がルームメイトやなんて。どこの物語なんよ!
心の叫びも失言なんてどうでもいい、澄まし顔の当の本人は隣のベッドに腰をおろさーーなかった。
彼女は自分のベッドからある本を手に取り、こちらに歩み寄る。表紙には見覚えがあった。
「………一五〇六……?」
そういえばうちのはどこやったけ?あのまま寝落ちして……。
右手にも左手にももちろん無ければ、視線を落としたふわふわ心地のベッドにもない。
「これ、読ませてもらったわ」
さらりと告げられる事実に頭のてっぺんから爪先までの血の気が引いていく。
勝手に読まれたことだけではない。家族にも、地元の友達にすら隠し続けてた大きな秘密を他人に呆気なくバレてしまった。あんなにも苦労したのに。
「貴女の涎が垂れそうだったから本棚に戻してあげようとしたけれど、どうせ片付けるのなら、その前にペアである貴女のことを知った方がいいんじゃないかって思ったわ。ほら、本や趣味には個人の好みや性格は出るでしょう?」
つらつら語られる経緯。同人誌は大切そうに彼女の腕の中にあるので何もされないと思うが、もう大事な部分を知られてしまったのだ。出来れば隠したかった深い部分を、開かれてしまった。
「そんなに怒りに震えなくても良いんじゃない?わたしは別に貴女のそういった好みを知ったからといって、軽蔑しない。……だけど、こうも思うわね」
水瀬さんの手がうちの頬に触れる。充分に冷風を浴びたからか、肩を跳ねるほど冷たくは感じない。
「お、怒ってなんか……いません……」
「そう?」
「ほんまに怒ってません!それで、な、何を思うんです……?」
本気で腹が立った訳でも、ドン引きした訳でもない。
やけど、出会いが二日くらいのペアの美人さんに秘密を知られたから、なんか……めちゃくちゃいやや……。
ふつふつとした煮えたぎるものではない、もやむやしたもの。ぴったりな言葉が見当たらない。
笑咲の聞き返しに水瀬さんはうちの了解もなく隣に座った。そのおかげで視線との距離がぐっと近付き、簡単に絡め合う。青い瞳には純粋な光はなく恐怖すら与えてくる。
「こういった本を好きな貴女が何故、ペア制度に乗り気じゃなかったかとても不思議だわ」
「それは………」
鮮明に思い出せる今日の出来事。遠慮はあると思うけど、今後の説明から顧問が来て解散するまで、ずっとベタベタしている印象があった。腕を組んだり、頬をつついたり、メイクを落とし……は考え過ぎかもしれない。
上手くは言えへんけど、目の前でそういったことを見せられても物語は物語の世界で、現実は現実やし……。
「物語は物語、現実は現実だから意味わからない、なんて思っているんじゃない?」
「……!?で、でも、私達は演技なんですよね……?だから、別に」
変といえば変、やけど、それも口に出さなかったら傷付けるも何もないはずやろ?うちは言えずにいた。
うちは今の自分を変えられるために部活が出来たらええ。別に他人の恋愛にどうこう思わなくていいはずや。
「ふうん。そう、」
突然、視界が反転して背中の衝撃の弱さに目を丸くした。
純白の毛が鼻に触れ、しなやかな指は肉付きのよい腕へと滑らせている。
ミリ単位の美貌を持つ水瀬さんの顔に影ができ、悪女が映る。艶のある唇が開かれるまで、呆然するしかなかった。
「それって先輩方に失礼ではなくて?本気も過程もわたしは知らないけれど、貴女がそんな中途半端なままだと先輩を否定することになるわ。もちろん、鬼頭部長にもね」
極端で客観的ではないのかもしれない。
けれど、いざこざはあったとはいえ、扱い辛いだろう自分に温かい拍手を送り、後輩として可愛がってくれたことは二日間でとてもよく感じた。
そんな優しい人達をうちは否定……?
「さっきの返事はとても不快だったわ。分かっている顔をして、仕方ないと思っているんだもの。どうせ居場所が無くなる辺りでも考えていたんでしょう」
ド正論の図星に言葉が詰まる。浮かぶ笑顔の先輩達、眼前で酷く冷たい目で見下ろす水瀬さん。
触れるだけで手足を拘束されている訳でもないのに、突きつけられる事実からうちは今度こそ目を背けることも逃げ出すことも出来なかった。
湧き上がってくるものは複雑に混ざったもの。
しかしながら、純粋な想いでもあった。
「否定……したく、ない……よ」
うちにとって、『否定』はこの世で一番の地雷ワードである。その言動によって出来た傷は程度なんて関係ない、ただ、ただ、痛くて辛い。今は自分のことじゃないのに酷く瘡蓋が痛んだ。目元を彼女は親指でなぞる。何を思ったのか知らないけれど、丁寧で優しかった。
「考えを改めるのに、いい考えがあるの」
「それはなんなん!?」
今は無理かもしれない。否定のままか否定に近い目で見てしまうかもしれない。けれど、否定し続けるのもっと嫌だった。
追い縋ると水瀬さんは唇で弧を描く。妖艶ながら少女のあどけなさが残る、悪戯な笑いに心臓がドクンと跳ね、耳に全集中が集まった。
「わたし達も恋人になってみるの」
は?長い沈黙の後、ようやく言えた言葉はその一文字。
と、突然すぎ、っというか、うちと水瀬さんが!?
「んな、月とすっぽんじゃありませんか!?」
「あくまで『ごっこ』よ。先輩方の前でわたしが言ったように演技は相手を魅せること。つまりは本当にそうあるよう振る舞わなくてはいけないわ。だからそうね、分かりやすく貴女に伝えるのなら……」
指が軽くうちの唇に触れる。柔らかい。
「恋人らしいことをわたし達が行う、というのはどうかしら?この本に書いてある行為とか」
二度目の「は?」も自重出来なかった。
陸リアみたいなこと……?うちらが?それって……。
『情景』シリーズは全編R指定はないが、派生作品しか同人誌を頒布していない。
その派生でもある一五〇六は全年齢向け、あとの二冊もそうだ。それでも目を覆いたくなるような甘いスキンシップも全年齢の中には多く存在している。
ましてやうちと水瀬さんは女子だ。女子と女子だ。
「わたしは出来るわよ。貴女とならどんなことでも」
「……なっ!!」
淡々と話す冷静沈着な水瀬に対し、体が火照るほど熱く感じたのはうちだけみたいに見える。
この人、何言っとるか分かっとるの!?
真面目に提案していると信じたくはなかった。出来ることなら軽蔑の目を向けられた方がマシであるのに、はくはく言葉の出ないうちを悠々と眺める彼女からはおふざけの感情がないように思えた。
嘘だ。嘘に決まっとる。だって、この人はうちとは全然違って。
青系が混ざりあって、綺麗に作り出している瞳には押し倒され、困惑したうちが映し出されてる。
まだ他人だし……。恋人ってもっとロマンチックに出来て、うちはまだ全然水瀬さんのこと知らんし……あと、それから……。
彼女の細い鼻息がうちの鼻の頭に当たる。擽ったい。
部員同士でルームメイトのほぼ初対面の二人がそんな関係になっていいの?
「……もし、恋人……ごっこ、をしなかったら……うちが腐女子ってこと、みんなにばらす?」
これ以上の密かな趣味は公にしたくなかった。人には信頼に足る人物へも隠したい秘密の一つや二つはあるはずに違いない。
ぴくりと眉を動かした水瀬さんは「ええ」と返事をする。性悪女や、とうちは途端に青ざめた。
「これは演技を極める上で大切な行為だと言っても過言ではないわ。貴女にも必要なことよね?堂々とした人間になりたい、先輩方の関係を認めたいと心の奥底で願っている。今すぐに変化出来なくても腕を磨くうちに成長すると確信してる。わたしは演技を研磨したい。どう?利害の一致にならなくて?それから、貴女が本当に嫌がることは決してしないわ。どう?」
「約束出来るんですか……?」
彼女が捲し立てる内容は極論で暴論だ。自身の目標の為にうちを利用すると言ってもいいんだから。
だけど、彼女の言い分は一理ある。うちはたしかに恋人に近いようなペア制度に納得出来ていない部分はあるし、部長に憧れて入部した。何故、水瀬さんが本音まで見抜いたのか知らないけど、うちも強気に約束と言ってみせる。感化されたとはいえ、小動物だって勝負に出れるんやから。
「勿論よ、契約といってもいい。演劇部を卒業すれば解かれると約束しましょう。だから、ひとときのペア相手に嫌な思いなんてさせないわ」
彼女の笑顔は麗しいと評価を得るはずだが、今のうちには小さな身震いに勇気を奮い立たせる要因でしかなかった。
それほどに水瀬 カリンが未知の少女である証拠だろう。
「……分かった。契約成立ということで」
「よろしくね、如月 笑咲さん」
笑みを浮かべた水瀬さんに心臓が跳ねたのはこれから奪われるファーストキスへの不安が高まったからに違いない。
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