十、屍の見る夢

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「兄さんは罪が発覚するのを待っていると思いますか?」 「待っているのかもしれないし、待っていないのかもしれない。綾にしてみれば、捕まっても、捕まらなくても、同じことだよ」  兄さんは僕が知らないうちに死んでしまっていたのだ。だが、僕はとっくにそれを知っていたような気がする。怜子を殺した日、あの瞬間、それが決定的な終わりを意味していると僕は悟っていたからだ。 「俺もそうだし、綾の魂も、もう冥府に繋がれている。だからその後の人生は、まるで屍が見ている夢みたいなものなんだ」  だからこんなにも、現実感が伴わないのかもしれない。兄さんに御子柴、それに弥生もだ。みんな死んでいて、彼らは屍なのだ。 「でも」  御子柴の目に、悲しげな色が滲んだ。 「綾の魂の欠片はまだここにとどまっている。その理由は、君がいるからだ」 「僕が?」 「綾は全く死んでしまったわけじゃないのかもしれない。何にも引き留められず、あいつはもっと冷酷な化け物になることができた。そうならなかったのは、君がいたからだ。明音君、織原綾は死んだが、兄としてのあいつは、まだ残っているんだよ」  すっかり理解できる話ではないが、僕の心に刺さるものがあった。僕は唇に力をこめ、その正体不明の痛みに耐えた。 「綾が言ったんだ。自分に何かあったら、明音のことを頼むって。笑えるだろう、俺に言うんだから。俺だって同じなのに」  僕は俯いた。  兄さんがそんなことを考えていたというのが意外だった。それこそ、何が起きてもどうでもいいと思っていそうだったからだ。  もしも兄さんに何かあって、兄さんが僕の前からいなくなってしまったら。  僕はいつも孤独でいるつもりだったが、兄さんがいなくなれば、その孤独はもっと、深く悲しいものになってしまうのだろう。兄さんがいてこその孤独が、彼を失うことによってまた深くなるというのは何だかおかしなものだった。 「俺達は、君に謝らなければならないだろう。俺や綾は、君を苦しめている。君は、もう、まともな人生なんて歩めやしないと思っているかもしれない。俺は否定しないよ。君を励まして、導いてやることはできない。導くべきところを知らないんだ。何しろ、何もかも失っているから」  御子柴は休憩するみたいにゆっくり目を閉じて、それからまた開けた。 「でもな、明音君。君はまだ死んじゃいない。俺や綾とは違うんだ。俺は君に生きていてほしいよ。それは綾のためでもある」  僕は御子柴や兄さんと違うだろうか。僕だって、もう人生はとっくに終わってしまった気がするのに。だが御子柴が言うように、厳密には僕は違うのかもしれない。  僕は煩悶する。それは生きている証だとも言える。明日空が落ちたり、地面が消えたりすると聞けば、きっと恐ろしいと思う。  僕はまだ、彼らのように死んではいないのだ。  奥の部屋には御子柴のかつての婚約者の写真が飾ってあった。御子柴は彼女を殺すことを決意し、彼女の死が御子柴を殺した。 「飯食ってる時にこんな話して悪かったな」 「いいえ」 「まあ、食えよ」 「ありがとうございます」  それからも話をして、食事が終わると、僕は御子柴の家を辞した。  御子柴の住んでいるマンションの一室は、よく片づいていて、余分なものが何もなかった。遠い昔に主を失って、ほとんどそのままになっているような部屋で、兄さんのとよく似ていた。  暗がりの中、僕は建物を見上げ、御子柴の部屋の窓をさがした。明かりがついている。あそこには御子柴の屍が住んでいるのだ。  僕が兄さんをこの世につなぎ止めているのだとしたら、それは喜ばしいことなのだろうか、と僕は歩きながら考えた。  それは言い換えれば、僕こそが兄さんを苦しめているということになるのではないだろうか。  僕は御子柴の言っていたことを思い出した。 「綾は前にこう言ったんだ。この世の全ての殺人を自分が引き受けられるなら、是非そうしたい、とね」  自棄になっての言葉ではないだろう。善意でもない。兄さんは、人は人を殺すべきでないと口にしたことがある。だからもういっそのこと、どうしても人が人を殺してしまうなら、その行為だけでも自分がやってしまった方がいいと思っているのだ。  兄さんはもう、大方死んでしまっているから。  人は生きながらに死んでしまうことがある。  価値は消え、悩むことすらできなくなる。守っていたものも保っていたものも、それは生きているからこそ、そうしていられたものだったのだ。過去も未来も砕けたあとには、それらは同一の砂となって、その他のものと区別できなくなってしまう。  死とは一切が均一の砂になってしまうようなものなのだ。  兄さんや御子柴のいる世界は、この現実世界と重なってはいるが交わってはいない。彼らの形をした亡霊が、ただ見えているだけだった。  彼らは何も取り戻せない。何も覆せない。もう、どこにも行けない。  僕もさして変わらないが、彼らと違うのは、それでもまだ、全てを失いきれず、何かを望み続けているというところだ。生きていれば何かを望むというのはごく自然なことだ。
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