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この後はどうしよう。万事こんなことなら、入った意味はあまりない。
けれど、せっかくだから──あそこで拾ったのも何かの縁だ──と彼はそのまま二階の寝室と思しき部屋へ向かった。木の階段はきぃきぃと軋むが、外へ漏れて近所に不審がられるほどではないだろう。ドアを開けると、これまた綺麗に整えられたベッドとクローゼットが見えた。余程きっちりした性格と言えよう。大きな窓にはレースのカーテンが掛かっていて、明るい。
同じようにベッドサイドテーブルを物色する。やはり、金品の類は一切見当たらなかった。ひょっとすると……今まさに銀行に行って金を下ろしてでもいるのだろうか。大体通帳は複数あると思ったが……一つの銀行だけ利用しているのだろうか。
しかし、それにしても、家主の情報を得られる物が一切なかった。請求書の類も、手紙も、ダイレクトメールも。そう言えば表札も掠れていた。ここに住んでいるのは誰だろう?
……不意に怖くなった。
もしかして……金がないのではなくて必要ないのではないか? 冷蔵庫も……。
そんな突拍子もないことを思いついて、自分で笑い飛ばすよりも先に猛烈な恐怖に襲われた。彼は部屋を飛び出──せなかった。
彼の目の前でドアは勝手に閉まったからだ。ドアノブに飛びついて、何度も捻るが、施錠でもされたかのようにあかない。ここに鍵はついていないのに!!!!
どうしよう。そうだ、窓から……と思ってドアノブから手を離したその時だった。
きぃ……とクローゼットがゆっくり開くような控えめな音が鳴ったのは。
彼は息を詰めた。まるで、そうすればすぐ後ろから出てきた何者かの目をごまかせるとでも言うかのように。
ぺた、ぺた……と板張りの床を踏む音がする。裸足の誰かがひどく緩慢に歩いている。息遣いは一切聞こえない。
怖くて振り返ることなどできなかった。あの落ちていた鍵は……もしかして、罠だったのだろうか。自分のような人間をここへ呼び寄せるための……。
足音はどんどん近づいてくるのに身動きが取れない。動いたら最後、飛びつかれるという確信があった。
ぺた。
足音がすぐ後ろで止まった。もう逃げられない。彼はぶるぶる震えながら振り返ろうとして……。
その頭を、背後にいた「家主」に鷲掴みにされて短い悲鳴を上げた。
悲鳴が短かったのは、途切れたからで、途切れた理由は言うまでもない。
しばらく、べきべきだの、ごきごきだの、みちみちだの普通に生きていればあまり聞くことのないおぞましい音が部屋を満たしていた。やがて、先ほどより少し重たい足取りで、ぺた、ぺた……とクローゼットへ引き返す音がする。
さっきと同じ歩数だけ歩くと、きぃ、ぱたん。扉の閉まる音がした。
***
家から吐き出されたように鍵が道に落ちている。
そうであるから、その明らかにレトロな鍵──昨今の防犯に配慮された鍵とは真逆の──を見て、彼は神様が自分にチャンスをくれたのだと思った。それは自分にとっては福の神で、誰かにとっては疫病神なのだ。
けれど、そんなことではなかったのかもしれない。いかなる神様も、彼の傍を素通りしていったのだろう。疫病神すら顔をしかめるような物だから。
次の獲物を待つそれは擬似餌。
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