2-2

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「恋人ってどう思うか、だっけ」  口元は笑って、でも半分睨むようにして、浅野はオレを見た。首の裏側に全部の神経が集中しているようで、少しでも動かすと内側でぎりぎり鳴った。手元をいじろうか、箸を動かそうか、そうしたら少しでも浅野のこの、圧縮された無音の気配が小さくなりはしないか。かちゃかちゃ皿を鳴らせば、そっち側に意識を持っていかないか。全く的外れなことを考えてばかりなのに、目は決して浅野から逸らせなかった。 「どうも思わない」  え? と言ったような気もするし、言わなかったような気もする。 「逆に聞くけど、あんたさ。そうしたらどうするの?」  そうしたらって? どうするって? 地位が得られるじゃないか。そんなこともわからないのかこの男は。理解力の乏しい彼の言葉の並びに、眉をしかめる。 「街中で手を繋いでもいいの、同居人は恋人ですって宣言してもいいの、なんなら信号待ちでキスしても平気なの。違うだろ。あんたみたいな体裁ばっか気にするやつにそんな度胸あるわけねえだろ。俺は別にいいよ、明日職場で言ってもいいよ、恋人はずっといました相手は男ですでも気にしないでください大丈夫なのでってさ、笑ってなんともないみたいに言ってもいいよ別に。そしたらあれだ、あんたが気にしてる経理のねーちゃんも引くだろ、なあ? でも違うだろ、そうじゃねえだろ、あんたは海で足元が濡れる程度の見た目だって気にするようなやつだろ、ふざけたこと言ってんじゃねえよ」  あ、と声を出した。頭がうまく回らなかった。手を繋ぐ、街中で。宣言する、職場で。目が眩む。瞬きを何度しても、目の前がちらちら揺れて、目映いというより暗かった。浅野が目の前にいるのに姿形が確認できず、陽炎のようにぐらぐらと揺れた。 「明日も学校まで送って行ってやろうか? そんで、手ぇ繋いで校門まで歩いてやろうか。コウちゃん大好き仕事頑張れって、別れ際にキスしてやろうか。はは、すげえねそれ。一発だ」  何それ絶対に嫌だ。一番最初に浮かんだのはその言葉だ。紛れもない嫌悪だった。息を吸ったらひゅっと喉が鳴る。吐き出したと同時にもしかしたら、口に出したかもしれない。 「あんたが言ってんの、そういうことだろ」  皿に残った照り焼きに、浅野は箸を伸ばした。一口が大きく、食べ方が綺麗。盛ってあった食事はあっさりとなくなり、こんなに短時間で終わってしまうのを、いまさら知った。ごちそうさま、浅野はそう言って立ち上がり、皿と箸をシンクに下げた。何も言わず、ベランダに行ってしまった。俯くと、自然と皿が目に入った。照り焼きはまだ残っているし、白米だって茶碗の中にあった。箸を伸ばして照り焼きを口に入れた。豆板醤の辛味が舌を占領していて、味がわからなくなる。舌が麻痺しているから、浅野が辛いのが好きだから、だから味がわからない。  自分が欲しい味も、わからなくなった。  そうじゃなくて、そういうんじゃなくて、じゃあなんなんだ、どうしたいんだ、どうなりたいんだ、具体的に問われたら、言葉にするのがひどく困難だった。ほらみろ、確証を得られない関係性の曖昧さと繊細さは、脆くて潰れやすい。名前のない間柄の脆弱さよ。手を繋いでなんて、絶対に歩けない。何それ絶対に嫌だ。嫌だった。バレるのも後ろ指差されるのも白い目で見られるのも生徒からひそひそ噂話をされるなんて論外だ。いやだいやだいやだ。見透かされていた。もうずっと、ずうっと前から。海に濡れ雨に濡れ、ずぶ濡れより今のこれは厄介だ。  その日の夜も、翌日の朝も、幾日か経っても、特別な変化はなかった。浅野は特段変わった様子もなく、おはようもおやすみもただいまもおかえりもあった。食事の間の会話も変わらず、もっとも会話というより、ああ、と、うん、が変わらず存在しているだけだった。例の話をわざと避けて持ち出すこともしなかったから、些細でくだらない、話さなくてもいいような内容ばかりつらつらつらつら延々と重ねた。ああ、うん、ときどきその中に、そうだな、が入る。おはよう、おやすみ、ただいま、おかえり。呼び方も、三矢さん、あんた、本当に稀に、コウちゃん。変わらない。浅野は変わらないのにどうしてだろう。薄くて透明の見えない壁みたいなものがあって、彼の冷たい掌に触れるのを堪えたくなる。一瞬だけ伸ばして、壁に阻められる。だからすぐに引っ込めた。それを繰り返した。  毎日のメールも変わらない。今日は早い遅いメシはいる要らない、繰り返す業務連絡に、日々は過ぎていくのを漠然と知った。恋人云々、はたしてあの言葉は必要だったか。浅野の性格や価値観を分析すれば、彼の言うことは予測できたじゃないか。離れるのは嫌だった。ようやくこうして過ごせるようになったのに。だからこのまま、なんの気ない日常とくだらない日々と、毎日の中で諍いや喧嘩をときどきして、先日のような言い合い、それらを含めた全てをやり過ごして、生々しいものや薄くて見えない壁なんて見ない振りをして過ごしていけば、とりあえずの「明日」は訪れるのでは?  結論の出ない問題を、なんだか以前も解いていなかったか。ただそのときは、解答が正解でも不正解でも引き連れていくと実家を出たはずだった。頭を抱える同じ問題にまた、いつか出会うと予感しながら。案の定顔を合わせ、気まずい思いをしている。  今日は残業をしていた。採点が残っていて、山積みの答案用紙を横目で見た。職員室は寒かった。暖房を入れるなんてとんでもなくて、部活用のジャージをスーツの上に羽織って仕事をしていた。秋が終わる。急に空気の気配が身をつんざくような硬質のものに変わる。浅野の冷たい掌のような、色があまり見えない、冷たい冷たい肌色。  スマホを取り出し、鳴っていないのに確認した。昼休みにいつも通り、メールを送った。「今日は遅い。メシは食べます。なんか食いに行く? 奢る」特に何も考えず、たまには外で食べてもいいか、という内容のものを書いて送った。どうせいつもの通り彼は、「了解しました」だろうと確認もしなかった。今それを、ようやく見た。ガラケーの浅野に送ったメール。ラインではない。そろそろおまえも、スマホにしたら? 開いた画面には、今日も同じ文面。 「了解しました。終わったら連絡してください」  同じ文面。でも違う。まる、ばつ、まる、まる、答案用紙の採点。まるかばつか。まる、まる、ばつばつばつ。三問連続不正解。天井を仰ぐと、蛍光灯が自身を形どるじわじわとした光を放っている。目が疲れてしまった。職員室で残っているのは自分一人だ。疲れたなあ、早く帰りたい。  寂しい。  仕事に寂しい寂しくないってあんの? つい先日、浅野がふと笑いながら言った言葉だ。あるよ、寂しいんだよ、会えないから。早く帰って一緒にメシが食いたい。  答案用紙をまとめ、立ち上がった。急な仕事じゃない。土日に休日出勤すれば間に合う。急ぐのはこっちの方だ。まる、ばつ、まる。ばつが一つや二つついても、もう全部「まる」でいい。職員室を出て、職員用玄関を出て、最初に感じたのは秋の終わりだった。乾燥してからからと淀みのない風が、ざっと一気に鼻頭を過ぎた。春から一緒に暮らし始めて、夏が過ぎて秋も終わる。冬になってそれが終われば、また春が来る。  スマホをもう一度見た。浅野から連絡はなかった。おそらく残業中だろう。電車に乗り、彼の職場の最寄駅で降りた。歩いておおよそ十五分程度だ。大股で足を進めると、渇いた空気がやけに絡み付いた。すん、と一度鼻を鳴らして吸い込むと、枯れ草と落ち葉のかさついた匂いが無造作に通り過ぎる。浅野が口にするような表現が急に頭の中に湧いて出て、好きだ好きだ、とそればかりが浮かんだ。おそらく残業中。経理の女も、そこにいる。  永瀬モーターに着くと、事務所に灯りは点いていた。いるのかもしれない。浅野とあの女は二人で。いないかもしれない。今日は浅野一人で残っているかもしれない。普段は彼の車の近くで待っていて、それから一度電話をする。この先に、この時間に足を踏み入れたことはない。おかしな行動だということはわかっていた。他人の職場に、部外者が無断で。やめればいい。足を進めなければいい。でもさあ、だって浅野が。浅野があんな言い方するから。事務所にはまだ煌々と灯りが灯っていて、証拠にもならない視覚的な物証を手に入れた気分になった。だって浅野はわかってくれないから。別にオレだって、甘くてねとねとした男女の真似事がやりたいわけじゃない。ふふふと笑い合って、今日も明日も明後日もずっと延々と好き、だなんて想像するだけで胸焼けしそうだ。そうじゃない、違う。  じゃあ何? って話。知らねえよ。  足を進めていくうちに息苦しくなる。緩めていたネクタイをもっと解したら、少しだけ楽になった。逸る心臓とは裏腹に、足の動きは段々とゆっくりになる。オレはただ、浅野の特別が欲しいだけなんだ。あんたがいて楽しい、あんたがいて幸せ。それを得て誰よりも上に立ちたい。ときどきでいいから欲しいときに欲しい言葉をもらって、いいだろオレのもんなんだこいつはって、誰に自慢するでもない自己満足を、一人で大切に抱え込んでいたいだけ。  浅野がくれないから。オレが欲しい言葉を。  なんて自己愛。なんて小賢しい。相変わらず。  事務所からほんの一メートルほど離れた場所で立ち止まる。声がする。聞こえるのは、きんきんしたピアノ。女の声だった。ほらみろ、ど真ん中に触れるとねちゃねちゃして綿菓子みたいに柔らかい、一口食べたら甘過ぎて胸焼けしそうな女の声じゃないか。甲高くて少しだけ物憂げな、感情をかなぐりつけるような声が、外に漏れている。ずりずりと近寄り、構え、耳を澄ませ、唾を飲んだ。ぱっと弾けるピアノみたいな声が聞こえ、中の様子など見えないのに目を凝らす。  ――あんたが一緒に住んでる誰かさん、あんたの好きな人、その人はくれないよ?  誰が? 何をくれないって?  ――あんたが一番欲しいもの。大好きなママがくれたはずの無償の愛でしょ? でも貰えなかったんでしょ、本当は欲しくて欲しくて堪んなかったくせに。だっていつも飢えた子供みたいな顔してるもん。  なんでてめえが知ってるなんでてめえが勝手に決め付けるオレじゃない誰かが浅野を子供みたいだの無償の愛だのほざきやがってなんでてめえみたいな余所者が割って入りやがるオレが決める決めるのはオレだくそったれ。  ――期待するだけ無駄よ。他人はそんなもん寄越しゃしないの、くれないの、うまくいかないの! 「うるっせえんだよ! 黙れ!」  言ったのはオレじゃない。口を閉じ、手で抑えた。叫んだのは、オレじゃない。  ――わかってるくせに子供みたいに嬉しそうな顔してさあ! 甘ったるい現実なんてないんだよ!  急に静かになった。気配が途切れる。浅野が自分以外に怒鳴りつける声を、初めて聞いた。自分以外に対して剥き出しになるあの男を、目の前に叩きつけられたようだった。知らぬ間に握り締めていた拳を開くと、しっとりと滑っている。暗がりの中で顔の近くに手を持ってきて眺めると、開いた掌がふるふると小刻みに揺れていた。浮気の方が、ずっと良かった。マシだった。あの男は、オレ以外に唾を吐きかけるのかもしれない。ぶつけるように噛みつくのかもしれない。ぎりぎり引き裂くみたいに引っ張って、身を引き裂くほど激しく抱くのかもしれない。オレ以外を。オレ以外の誰か、あの女を。  ポケットに手を入れた。スマホを取り出し、着信履歴から浅野の名前を探した。履歴からだと、指をずるりと動かさないと見当たらない。足元から、さっと悪寒が走る。ざわざわと疼く。なんて味気ないのだろう。名前もなかなか、見つからない。ずらした画面の下に現れた「浅野洋平」の名を親指で押して耳に当てると、鳴った機械音さえ寒々しい。 「はい」 「オレです。まだ仕事中?」  白々しい。ここにいるくせに。 「うん、残業中」  うん、知ってる。 「今おまえの職場まで来てんだけど、事務所まで行ってもいい?」  ムカつくから。腹立つから。ぶん殴ってめちゃくちゃにしたいから。でもそれじゃあ、あんまりじゃないか。オレが。 「え? あー……、うん。いいよ別に。じゃあ」  もっと効果的に。もっと傷痕が残るように。もっともっといたぶりたい。てめえじゃ話にならないって、骨の始まりから終わりまで無残に知らしめて埋めつけてやる。  女がドアを開ける前に開けた。目の前には、小柄で綺麗な人が立っていた。 「三矢さん」  浅野の声に彼女は、ひどく驚いたように一瞬だけ浅野の方を振り返った。そしてすぐに目線を戻し、目を瞬かせる。以前確か、浅野が言っていたと思う。男ならあの顔は誰も嫌いじゃない。確かに。納得。ほらねやっぱり。ご自身の使い方をよくご存知でいらっしゃる。打算的で小賢しい、浅ましいくせに憂いを滲ませる。 「こんばんは」  にこりと笑うと彼女は、ひどく驚いた顔を見せた。  初めましておねーさん。オレがあなたの言う、何もあげない浅野の好きな人です。    
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