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 前からムカついてたっていつから? チェックの包みに弁当箱入れてたときから。スプーンに掬われたカレーは、三矢さんの口の中に吸い込まれていった。終始平坦な口調で喋るこの人の、声の質の真ん中に何が通っているのだろう。よくわからないことが脳を巡って、返答に困った。あまりにも抑揚がなかった。彼は過去、こんな喋り方をしたことがあっただろうか。 「なんだっけ? 作り過ぎた? だっけ? 差し入れ持ってくるとかさー」  はは、と三矢さんは渇いた声を漏らした。かすれていて、誤魔化すみたいにまた、小さく笑った。彼は行儀悪くスプーンをかちゃかちゃ鳴らして、皿をいじる。ようやく掬って一口食べた。 「前に、まだ一緒に暮らす前。おにぎり渡してたじゃん、おまえに。打算的な女だなーって。すげえ嫌い、そういうタイプ」 「とかさー」「だなー」と語尾を伸ばして幼く感じさせる口調を含ませながら、やはり話し声には抑揚がない。それ以上に、驚いた。彼の言う「経理のねーちゃん」とは一年以上一緒に働いているものの、まず好き嫌いを考えたことがなかった。差し入れは差し入れだし、作りすぎたものは単に作りすぎただけ。その上、「あの女おまえのこと好きだろ?」と言われても、好意って要は、それを感じ取る嗅覚が自分にあるかないか、じゃないか。カメレオンの話になぞらえれば、皮膚の色も温度も、変わっていないと思う。元の姿のままだ。 「考えたことなかった。ただの同僚だし、好かれてるとかないと思うけど」  全く後ろめたさがないのに、この、妙な空気の重さはなんなのだろう。悪意しか感じない。 「おまえのそういうのが隙なの」  三矢さんはまた、滑っこいのに全くそれとは違う感情を含んだ声を出した。いい加減苛ついてくる。こちらに正しく非はない。 「あのね、隙だかなんだか知らねえけどな、考えたこともねえしどうでもいい。つーかただの同僚でしょうが。いちいち悪く言うなよめんどくせえ」  一気に言うと、彼はぱっくりと口を開けた。もうまじでめんどくせえからカレー食え突っ込んでやろうか、最後に付け加え、スプーンで大きくカレーを掬い取って前の人の開いた口の中に放り込んだ。彼は反射的に口を閉じ、咀嚼している。飲み込むと、少し落ち着いたのか黙ってしまった。ようやく静かになり、食事を再開する。ゆっくり食べる気は毛頭なく、手早く食べ終えたところで、ごちそうさま、と席を立った。 「……庇った」 「は?」  ちまちまちまちま食べているのか三矢さんの皿は、未だに空にならない。 「さっきおまえ庇っただろ。悪く言うなって」 「は……、はい?」 「浮気だ」 「あんたの思考回路どうなってんの、頭ん中見せてよ」  思い切り息を吐き、ダイニングテーブルのすぐ横にあるシンクに皿を下げた。水を流し、カレーの汚れを浮かす。彼は座ったまま、何やら喧しく喋っている。詳細を聞く気にもならなかったから、もうラジオの電波だと切り替えた。広いリビングには、三矢さんのよく通る声が流れている。不思議なことに、このシンプルな建物と建具に、彼の声は合っていた。昔から、静かな食卓しか知らない自分にとって、この部屋の生活はとても珍しいものだった。おはようがあっておやすみがあって、それらが日々の中に自然と組み込まれていて、ただいまとおかえりもいつの間にか口をついて出る言葉に変わっていた。なにもなかったはずなのに、もともと自分の中に存在しているもののように扱い出してしまうと、はたしてこれが珍しい言葉なのかと疑わしくなる。喧しいラジオも当然一部で、喋る内容が明らかにならないとしても、今はさほど鬱陶しいとも思わない。ただこちらは、慣れと諦観も大きかった。  食事の最中に、会話をするのが苦手だった。昔から相手がいなかったからだ。そもそも会話などなくても、胃袋の中に食べ物を入れる行為は簡単に成立する。喋らなくても足りてしまう時間だった。今も得意な方ではない。相手に返さなければならないからだ。ああ、と、うん、だとしても、声を出す作業をしなければならなくなる。どちらかと言えば、不得手な方だった。食事に伴う会話は不必要だと今でも思っている。  皿一枚とスプーンは、もう洗ってしまう。グラスはまた使うから後だ。彼のラジオを聞いている間に汚れも浮いた。スポンジに洗剤をつけ、ぐしゃぐしゃと泡立てた。すぐに終わってしまい、前を見る。三矢さんも食べ終えたようで、皿の中はようやく空になっている。 「ついで」 「あ? 何」 「ついでに洗うから、ちょうだい」  皿とスプーン、ぼそりと呟いた言葉は、流していた水と一緒に排水溝へ消えた。食器の擦れる音が目の前で聞こえたから、カウンターに置かれたのだろう。目だけを動かすと、皿とスプーンが見えた。濡れた手で掴んで、また水を流す。 「おまえオレのこと好き?」 「うん、すき」  しつこい、顔を上げて三矢さんを見て言うと、「しつこい」と言っているのに艶然とする。また、ふふ、と、ひひ、が混在した薄気味悪い笑い方をして、目を細めた。「すき」という言葉だけ、人質に捕られているみたいだ。  昔から、静かな食卓しか知らなかった。食事中の会話を知らなかった。それを調子良く笑って、いいものだよ、と教えてくれたのがこの人だった。例え話し声がラジオのように聞き流せる音でも、例えおざなりに返事を返しても。迂闊な笑顔と言葉を返していれば、表面上は満足するらしい。  性格が悪いのはどっちだろう。  遥さんが永瀬モーターに入社したのは、おおよそ一年半前だったと思う。季節がいつだったかも定かではなく、ただ暑くも寒くもない日だったのは覚えている。急に辞めた経理の社員の穴埋めに、慣れない仕事を社長と自分が担っていたから当時ひどく忙しかったのだ。彼女が初めて永瀬モーターに訪れたとき、対応したのは俺だった。毅然とした態度で、「井上遥です。お時間いただきありがとうございます。本日はよろしくお願いします」彼女はぴしゃりとして頭を下げた。  なんかと戦ってんのかこの人は。最初の印象がそれで、ずっとついて回った。気の利いた差し入れ、手作りのバレンタインチョコ、胡散臭い優しさと無関心を物で覆い被して、警戒心を隠しているみたいだった。母親が、興味のないオトコと付き合って寝る前に共通してやることが、確かこんな感じだった記憶がある。だから彼女のことは、苦手だった。苦手な女性、という対象だった。胡散臭く張り付いたつくろいものの笑顔をするひと。その彼女がときどき誘う食事は、社交辞令でまとめたほうが無難だった。例え三矢さんの言うことが正しかったとしても、知らない振りと言葉にしないことで、彼の杞憂でしかなくなるからだ。はたして、いい性格をしているのはどちらか。 「お疲れさんでした」  今日もまた、残業をしている。昼休憩の彼からのメールには当て付けのように「残業です」と返信した。三矢さんからの返事は来なかった。ざまあみろ、と唾を吐きかけたくなった。あの人を押し倒して綺麗な二重瞼に吐きつけたら、彼はどんな顔をするだろうか。嫌がるだろうか、浅野てめえ! と小汚なく罵るだろうか。残業を終えた経理のねーちゃんに素知らぬ顔で、お疲れさんでした、なんて声を掛けながら、薄汚いことを考えていて鼻で笑った。彼女は腕を伸ばして唸っていたから、それを笑われたと感じたのかもしれない。一度咳払いをしている。お疲れ様でした、と彼女はまた、毅然として答えた。 「わたしは終わりました。浅野さんは?」 「俺も、もう終わります」  時計を見ると、午後八時を回っていた。 「浅野さん、良かったらご飯食べて帰りませんか?」 「あー、俺はいいです。同居人が多分メシ作ってる」  今日も嘘を吐いた。同居人はメシを作って待ってなんていないし、帰宅しているかも不明だ。 「そうですか」  断られるのを知っていながら彼女は、この日もまた社交辞令で誘う。つくろった綺麗な笑顔と柔らかい物言いで、今日も喋る。彼女を全く知らない、彼女も知らない誰かさんから「ムカつく」だの「嫌い」だの「打算的」だの、散々言われているのを知りもしないで、俺を誘う。打算的って自分だろコウちゃん。その可愛くない舌先を噛み切って血の滲んだ唾を吐き捨ててやりたい。あの瞼に、思い切り。 「遥さんって……」  ああもうムカつく、どいつもこいつも。そのくせ悟られるのも癪に障るから、仕方なくパソコンの方に目を戻した。 「俺が断るの知ってて誘ってますよね、なんでですか?」 「え?」  彼女は席から立ち上がり、バッグを手に持ったところだった。毎日持って来ているのは、気に入っているからだろうか。核心からわざとずれたことを考えるのは、いったい何のためか。 「入社する前、初めてうちの会社に来たときだったな。びしっと丁寧に挨拶して、頭下げて。俺びっくりしたんだよね。あんたの歓迎会のときなんて、離婚してこっちに帰ったっつって自分から言ってさ。口元はにこにこしてんのに、目は全然笑ってなかった」  目は彼女のトートバッグを眺めながら、責め立てるような物言いであざ笑った。だっていつもにこにこして、人のこと見透かしてんのか怖い女だな、と、俺もにこにこ笑って対応していた。だからもう、性格が悪いのはどっちだって話。いつも泰然と構えている彼女が、目線をうろつかせて見せるのは初めてだった。動揺している相手を責めて崩して急所をつついてやりたくなるのは、あの男に言えないからだろうか。あんたがムカつく、あんたのそういうとこがまじでムカつく、浮気ってなに、と。本当は、思い切り罵って泣かして犯してめちゃくちゃにしてやりたかった。 「あんた俺をメシに誘うとき、いっつもそういう顔する。なんかと戦ってるみたいだね」  俺にはなにもない。あの人もいつかいなくなるかもしれない。俺の本心を知ったら軽蔑して蔑んで、どこかへ行ってしまうかもしれない。 「わたしはあなたが好きです」 「え?」  半歩後ずさった遥さんを見て、意識がやっと自分を向いた。彼女は自分でも驚いているのか、口を指で軽く押さえている。あの女おまえのこと好きだろ? ああこれでもう、知らんぷりができなくなった。 「言わないで欲しかったな」 「どういう意味?」 「断んなきゃいけないでしょ?」  パソコンの電源を切った。所内が静かだ。些細な物音までよくわかる。お喋りな社長と藤田がいないと、永瀬モーターはいつも静かだ。彼女と残業をしても、会話もない。いつもだ。喋ることもないし、元々仕事以外の会話はしなかった。日々のこの静黙をわざわざ、あの人に語る必要はあったか。ラジオじゃあるまいし。 「断られるのわかってて、なんで言うんですか?」 「断られると思ってませんでした」 「はは、嘘だね」  彼女は目を眇めた。もう止めたらいいのに、彼女を蹴っ飛ばしてなんになる。自分だってそうだ。なにと戦っているんだろう。 「わたしじゃだめですか?」  かけていた眼鏡を外し、ケースに入れて閉じた。トートバッグを手に取り、帰り支度を始める。あんたで良かったら、とっくにそうしてる。あんな男に昔から、執着などしていない。噛んでちぎって殴って犯して、ひどい想像して興奮なんてしない。誰が聞いても異常なことなど考えなかった。 「遥さんは、誰が見たって綺麗ですよね。手も柔らかそうだし、見下ろせるくらい小さい。あんたみたいな人が相手なら、別に隠す必要もねえし」 「どういう意味?」 「さあ、なんだろうね」  首を傾げた。もうよくわからなくて、目を伏せた。笑うしかなかった。わかるのは一つだ。同居人は今日も、メシを作って待ってはいないこと。ずるくて不憫で身勝手なあの人に、早く会いたいなあ今日はなにを食べようか、どれだけおかしな思案を巡らせたところで、結局そこに行きついてしまうこと。食事の最中にする会話が苦手でも、静かな食卓は、もう嫌なんだ。あるいはそれ以前に。 「俺、苦手なんです。あんたのこと」 「知ってました」 「そう」 「それでも好きなんです」 「……って言われてもね。あんたは、困る」  知っていた。ずっと。三矢さん、あんたは正しい。わざわざ持ってくる差し入れ。ごちそうさまでした、とにこりと笑って一言だけで終わらせるのは、職場でのただのやり取りで終わらせる為だった。見返りは要らない。コウちゃん以外は要らないから。残念ながら。 「浅野さんって、好きなひとがいますよね?」 「そういうとこ、まじで苦手」  好きな人がいること、知ってたんだ。ぼんやりと、そんなことを考えた。思えばあの母親にも昔から、察知されるのは簡単だった。学生時代誰かと付き合っていることも、例えば、あんた昨日セックスしたでしょ? なんて平気で聞くひとだった。繊細さの欠片もない。どいつもこいつも。  母親みたい、小さく言ったのが、彼女に聞こえたかどうかは知らない。
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